小塚さんはトヨタ自動車の社員として働く傍ら、アスリートの社会貢献活動を推進する「日本財団HEROs(ヒーローズ)」で「災害支援チーム」の一員としての活動も行っている。今回の講習参加は、小型ショベルカーなど3トン未満の車両系建設機械の運転資格を取得するのが目的だ。
コロンビアでは治安の問題もあり、基本的にはホテルに缶詰め。日本ではほとんど使わないトレッドミルでの調整も多く、ようやく使えたウォーミングアップエリアのオールウエザー走路は施工が間に合わず、タータンが敷かれていなかったという。 普段は「陸上に関しては神経質」だという澤田だが、その環境でかえって開き直れた部分もあった。タイムや展開云々を考えるよりも、とにかく前をいくアフリカ勢の背中を追うことだけを決めた。 決勝レースの号砲が鳴ると、ハイペースでレースを進める先頭集団に食らいついていく。 ラスト1周までは先頭争いの機会を窺っていたものの、ラスト200mで一気に引き離された。それでも高校歴代2位の4分12秒87のタイムで6位入賞を果たした。 本格的な競技歴は1年半…それでも世界の6位に 「最後のスパートは、ここからこんなに上がるんだと思いました。日本では味わったことのないスプリントの強さでした」
「大谷翔平結婚」そのニュースは瞬く間に世界を駆けめぐった。結婚発表会見では語られなかった“事実”を大谷本人がNumberだけに明かしてくれた。3月7日発売のNumber1092号掲載[独占インタビュー]大谷翔平「野球翔年2024 結婚生活を語る」より、雑誌発売に先行してインタビュー内容の抜粋を特別にお届けします。 斬新なデート? ――昨年来、WBCでの世界一、ホームラン王、2度目のMVP、ドジャースとの契約、そして結婚……本当に盛りだくさんの“おめでとうラッシュ”ですね。このたびはご結婚、おめでとうございます。 「ありがとうございます」 ――大谷さんは以前、「1日40時間あったらいいのに」と仰っていました。そんな野球をやるだけで忙しかった大谷さんが奥様との楽しい時間をどうやって作っていたのか、不思議です。
2019年の箱根駅伝で青学大、東洋大を抑え、優勝した東海大。そのゴールテープを切ったのがアンカーの郡司陽大だ。栃木県生まれのランナーは卒業後、実業団入りするも周囲からの期待や大学時代との比較に押しつぶされ、走れなくなっていく。会社を辞め、人生を諦めかけた元選手が明かす復活の物語――。(Number Webノンフィクション全3回の第3回/初回から読む) ゴン太君だけは尻尾を振って迎えてくれた 実業団に入社後、1年半で郡司陽大(あきひろ)は退社し、栃木県の実家に戻った。 だが、実家に帰ると不安定な精神状態がさらに深刻になっていった。ある日、家族と普通に話をしているときに大声で叫び、急に涙が止まらなくなって、意識が遠のいた。頭から前のめりに倒れ、父が「大丈夫か」と叫んで抱きかかえ、母の「ちゃんと診てもらおう。病院に通おうね」という涙声だけが耳に残った。 「本当は、実家に戻ってくる気はなかったです
今年の春あたりから地方大会などで増え始めた、大流行中の応援「盛り上がりが足りない」。「も! 盛り! 盛りあ! 盛り上がりが足りない!」とコールする応援で、西東京大会で初めて聞いた時は、最初何と言っているのかわからなかった。「変わったコールだな」「誰に向かって言っているんだろう」くらいに思っていたが、瞬く間にスタンドを席巻。開催中の甲子園で、全49校の応援を取材したところ、実に32校もの学校が取り入れており、毎日どこかの応援席からこのコールが響いている。 採用・不採用の「理由」 SNSやYouTubeでさまざまな応援が簡単にコピー出来る時代だけに、正確な起源ははっきりしないが、茨城の明秀日立高校サッカー部の応援がTikTokで拡散され、全国に広まったのは間違いない。アルプススタンドで取材した野球部に「この応援を何で知ったのか」と聞くと、100%TikTok。「明秀日立サッカー部のを見た」とい
スーパーバンタム級最強と目されたフルトンに8回TKOで勝利をおさめた井上尚弥。衝撃の完勝劇の裏にはどんな駆け引きがあったのか? 井上尚弥vs.フルトンの”勝負を分けたポイント”を元WBA世界スーパーフライ級王者の飯田覚士氏が2回にわたって徹底解説! 第1回は、試合の趨勢を決めた序盤の攻防についてーー。<全2回の#1/#2へ> 井上尚弥の何が凄かったのか… 「相手が強くなきゃ実力以上のもんは出ない」 永遠のバスケット漫画「スラムダンク」で桜木花道の試合を見守る親友・水戸洋平が語った言葉がふと思い出された。元WBA世界スーパーフライ級王者、飯田覚士氏の「解説」を聞き終わった後のことだ。 確かに井上尚弥は強かった。そしてまたわざわざ敵地まで乗り込んだスーパーバンタム級2団体世界王者スティーブン・フルトンもさすがだった。
初めて出場するWBCが目前に迫った2月下旬。調整を続けていたキャンプ地アリゾナを訪ねた。「日本代表への想いは、より強くなっている」と語る大谷翔平は、自身にとっての“幸せ”をどう定義しているのか。現在発売中のNumber1069号[特別インタビュー]大谷翔平「30年後の日本野球のために」より内容を一部抜粋してお届けします。(全2回の2回目/前編へ) 少年時代に見た「イチローさん」のように ――大谷さんは日本でプレーしていたときに「WBCは目標にしているというより憧れだった」と仰っていました。当時とメジャーでプレーしている今、日本代表への想いに変化はあると感じていますか。 「その想いは、より強くなっているんじゃないですかね。以前はただ単に日の丸をつけたい、日本代表に選ばれたいという感じでしたから、そこは今とは全然、違います。このチームでの僕はもう主力として計算される立場になったと思っていますか
日本一過酷と言われる山岳レース「トランス・ジャパンアルプス・レース(TJAR)」。富山県魚津の日本海から日本アルプスを縦断し、静岡市大浜海岸の太平洋に至る約415km(累積標高差約27,000m)の距離を、制限時間8日間で駆け抜けるエクストリームなレースだ。 今年の夏、そのTJARで「4日17時間33分」という大会新記録で初優勝したのが土井陵(たかし)だ。剱岳や薬師岳を縦走する北アルプスを1日で越え、中央アルプスも1日で通過、多くの選手が歩きを織り交ぜるロード区間もほとんど走っていた。しばらくは更新されないと考えられていた「4日23時間52分」(望月将悟/2016年)という大会記録を6時間も縮めたのだ。 その背景には、走力や山の経験値といったベースに加え、綿密な食料計画や睡眠の取り方があるようだった。自らを「ミニマリスト」と語る土井のスタート時の装備は水分を除いてわずか3.5kg。他の選手
レースで勝つことと、自己ベストを更新していくこと、陸上には2つの目標があります。でも自分は、レースで人と勝負をする場合でも、結局は自分自身との闘いなんだと感じています。たとえレースで勝ったとしても、レース展開、ラップタイムの上げ下げなど内容を細かく見ていくと、トータルとしては自分の中で腑に落ちないことも結構あるんです。だからこそ、自己ベストやレース前に立てた目標タイムを達成した時のほうが喜びは大きいですね。 その意味で一番満足度の高かったレースは、中学2年のジュニアオリンピックです。全国の舞台もまだ2回目で、学年別ではあるんですけど初めて全国優勝できたんです。その時はすごい満足というか、すごいうれしかった。わー日本一って(笑)。驚きのほうが大きかったんですけど、タイムも含めて内容に達成感があったんです。 トラックで冒険をしていたような気が…… 昨年12月に1万mを走った時はレース中に“冒険
「僕が走ることで、ニューイヤー駅伝がより注目されるのではないかと考えました。そこで、駅伝を走る選手たちがより自分たちに自信を持って、駅伝だけでなく、その後の世界に飛び立つ選手が力をつけられるのではと思っています」 そしてふたつ目は、「ランナーとして第3の道」を示すことだ。 「これまでは2つの道がありました。1つ目が実業団に所属して走ること、そして、最近増えてきた2つ目が、プロ選手として活動するスタイル。そして、今回は第3の道としてプロでありながら駅伝を走っていくというオプションを示して、選手たちの活動の場を広げられたらと考えました」 解きほぐさなければいけないのは、「参画」という言葉だった。 大迫はIndependent、独立したランナーとして魅力を放ってきたわけだが、今回、企業に属する形にはならないのか? というのがファンの疑問だろう。参画という言葉をどう解釈すべきなのか。記者会見の直後
鬼のような形相で睨みつける。気迫がボールに乗り移り、バッターを打ち取る。 あとひとり。深呼吸をして間を整えると、今にも泣き出しそうに顔を歪める。 両極端の感情が、西日本短大附の森尾和貴に同居していた。 「最後は『絶対に敗けん……ここで負けるわけにはいかない!』という気持ちで投げていたんですけど、『やっとここまできたんだな』という想いが、どこかにあったと思うんですね。だから、こみ上げてくるものを抑えようとはしていました」 30年前、甲子園全試合完投の「鉄腕」 1992年夏。甲子園決勝戦のマウンドに森尾は仁王立ちしていた。 1-0で迎えた最終回。2死からランナーを出し、盗塁で得点圏までランナー進める。迎えるは、拓大紅陵の5番・立川隆史。準々決勝で9回に劇的な逆転ホームランを打っていることを森尾は知っていたし、当然、警戒もしていた。なにせ、単打で同点、一発を許せば逆転の場面なのである。 ただ、打
通常のナイター試合ならば、2時45分に開くが、この日は30分遅れでの開放。容易に予想はついた。 主力3人の放出で“終戦”を迎えたエンゼルス 今夏のトレード期限が午後3時に迫り、エンゼルスは、ギリギリの交渉を続けていた。ジェットコースターの冒頭のように頂上から一気に転落したようなシーズンで、トレードの市場は無念の「売り手」に回った。 駆け込みでブランドン・マーシュ、ノア・シンダーガード、ライセル・イグレシアスと、主力3人を放出した。イグレシアスはリリーフ陣とともに練習に顔を出したが、急きょ、切り上げてクラブハウスに戻った。 3時15分。私服姿でリュックを背負ったマーシュ、続いてタンクトップ姿のシンダーガードがクラブハウスの前の通路で会見。そして、クラブハウスの中に入ると、トレードが成立したばかりのイグレシアスが段ボールに荷物をまとめていた。 すぐにメディアに囲まれた守護神は、何とか言葉をつな
平成の大食いブームで「史上最強」と呼ばれたレジェンド・ジャイアント白田(43歳)。2007年の「元祖!大食い王決定戦」を最後に現役を退いた後、現在はバラエティに“食べられない男”として登場し、度々話題を呼んでいる。現役時代の姿とは程遠い現在のキャラクターはどのようにして出来上がったのだろうか。(全3回/#2、#3も) 2000年代前半、テレビ界が空前の大食いブームに沸いていた当時、数々の猛者たちがしのぎを削るなかで、圧倒的なスター性を放つ「大魔神」がいた。 ジャイアント白田こと白田信幸(43歳)。 2001年のTV番組「TVチャンピオン 全国大食い選手権」で準優勝デビュー。その5カ月後の同大会で優勝を勝ち取り、TBSの「フードバトルクラブ」では“大食い大魔神”の異名を取り、怒涛の連覇を成し遂げた。2006~07年の「元祖!大食い王決定戦」で2連覇を果たして自らの箸を置き、引退から15年が経
2006年、高校3年生で当時の女子1500m日本記録をマークして、「スーパー女子高生」と呼ばれた小林祐梨子さん。現在開催中の世界陸上に出場している田中希実が2020年にその記録を更新するまで約14年間にわたって日本記録を保持していた。 小林さんは2008年の北京五輪、09年のベルリン世界選手権に出場し、2015年に現役引退を表明。引退後に中学2年生から14年間付き合った男性とゴールインし、現在は2人の息子を育てながら、解説者やラジオパーソナリティーとして活躍している。 妻となり、母となった33歳の小林さんに、“若手アスリート”として注目されたゆえの葛藤や、引退後の自身を支えた家族への思いを聞いた。全2回の前編/後編は#2へ
4月9日、さいたまスーパーアリーナでゴングが鳴るミドル級2団体統一戦、WBAスーパー王者の村田諒太(帝拳)と、IBF王者ゲンナジー・ゴロフキン(カザフスタン)のビッグファイトが目前に迫ってきた。その実績から戦前の予想はゴロフキンに傾くが、いったいゴロフキンはどこがそんなに強いのか。そして村田はどこに勝機を見いだせばいいのか。過去にゴロフキンと拳を合わせた2人の証言から、“日本ボクシング史上最大”とうたわれるビッグマッチの見どころを探った。 「かみ合う」と自信を胸にウクライナに乗り込むも… 五輪金メダリストとして抜群の知名度を誇る日本のスター村田と、元ミドル級3団体統一王者のGGG(トリプルジー)ことゴロフキンによる一戦。両選手のファイトマネーはゴロフキンが15億円、村田が6億円とも報じられており、そのとてつもない金額には圧倒されるばかりだ。そんなゴロフキンのファイトマネーがまだ数千万円とい
東京五輪のマラソンで6位に入賞した大迫傑が佐久長聖高時代に、朝練習から常に挑んでいた先輩がいた。村澤明伸、30歳。大迫は「高校でも、アメリカでもチームの中で一番じゃなかったのが良かった」と語るが、当時、日本人高校生最強と言われた村澤の存在はその象徴だろう。だが、現在はSGホールディングスに所属する村澤は長らく故障に苦しみ、華やかな舞台から遠ざかっている。恩師・両角速が「エースらしいエース」というランナーに、大迫のこと、故障の詳細、そして現在地について話を聞いた。 「高校、大学、実業団と一緒のチームで過ごしたり、道が分かれたり。そうしていく中で私と彼(大迫傑)の結果はどんどん差が開いていく。正直、いやでもそれは目に入ります。彼の活躍は自分を正しく律してきた結果であり、尊敬の気持ちはずっと持っています。アメリカに拠点を置くなど、今まで日本人がやってこなかったこともやってきたわけですからね」 大
若い学生ランナーの大舞台である箱根駅伝。 「人生一度きりの学生生活」でしか挑戦できない高みだと思われてきたが、近年は実業団を経て入学した学生ランナーも現れるなど、その裾野は広がりつつあるように思える。 そしてまた今回も、異色の経歴を持つランナーが箱根路へと挑む。 今井隆生。駿河台大学4年、31歳。現役体育教師。 一旦職務を離れて自己研鑽に励むことを目的とした「自己啓発等休業」制度を活用し、一昨年4月に心理学部3年に編入学。「2年限定」での箱根駅伝挑戦を決意し、チーム初出場を勝ち取った。 飯能市の中学校にいた一人の体育教師は、なぜ箱根路を目指し始めたのか。編入学に至るまでの道のりと、駿河台大の徳本一善監督との出会いから、その“意外な理由”が見えてきた(全3回の1回目/#2、#3に続く)。 〈一度は諦めた箱根駅伝出場の夢を諦めきれず駿河台大学へ――〉 30代間近での英断には、そんなドラマティッ
そのひとつが、産後のアスリートの復帰だ。 「これは日本だけに限らず、世界的に見てもそうなんですが、出産を経て、競技を続ける人の数が非常に少ないんです」 そう言われてみると確かに女性アスリートの場合、妊娠して、出産し、子育てに入ると、もう競技者としては“上がり”のような風潮がある。 「ほんと、そうなんです。日本で女性の社会進出が改めて問われている中で、アスリートが育児を挟んで復活するために、もっとサポートできる環境が生まれて、理解が広がっていけば、陸上に限らず、産後も競技を続けたい人、戻りたい人がけっこう出てくると思うんです」 「いろんな人の思いがあって生まれた1枚だと思うんです」 そう願うなかで、卜部には最近、忘れられない印象的なシーンがあったという。 「寺田(明日香)さんが織田記念で日本記録(100mハードル)を出した時、娘さんとタイム表示板の前で写真を撮られていたのがすごく素敵だなって
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く