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ある人が「自分の話し方はライトノベルみたいだといわれる」と言って、「『戯れ言遣い』のいーちゃんみたいだよね」「ハルヒのキョンみたいだ」といろいろ喩えられはじめて笑った。 少なくとも誉め言葉でないと書いたが、「ライトノベルみたい」という形容詞はプラス方向にならないよなあ…。「話がライトノベルみたい」「絵がライトノベルみたい」…最初に「私はライトノベルという単語をプラス方向で使っています」という宣言が必要だ。 ここから思いついたのだが、自己内省というか、自己批評的、ミもフタもなくいえば、自分でつっこむ独り言モノローグはオタク作品でよく見かけられる。古くは押井守作品でよく見かけるし、代表的なのはメガネだ。戯れ言遣いシリーズのいーちゃんやキョンはダウナー系で、『うる星やつら』のメガネはアッパー系。 「ちょっと違うキャラだけど鳥坂先輩もオタクだと多いよね。あれうざいんじゃないの?」 「他称鳥坂先輩は
アニメ『涼宮ハルヒの憂鬱』を今まで見てきて、感心はしても感動はあまりしなかった。例えば、放送第9話「サムデイインザレイン」の長門の読書シーンの長回しは良くない。同様のシーンではエヴァのエレベータを思い出すだろうが、あれより長いし一人しかいないし行動が読めるので間が生じないのだ。例えば誰かと二人きりであれば、沈黙は二人の関係性に転化する。またエレベータという設定自体が、ふだん沈黙する経験がある場所だろう。だから例えばカメラに背を向けて座っているハルヒが一言二言発するとか、その上でもうすぐ誰かが帰ってくるのを待つとか、作画も台詞もそれほど増やさず原作とも衝突しないでも、工夫し想像させる余地はいくらでもある。 ハルヒのこれまでの需要のされ方も、「放送話数と構成話数が〜」とか「原作のどこどこでは〜」とか「公式サイトのどこどこに仕掛けが〜」とか「ラジオから聞こえている台詞は〜」とか「長門が読んでいる
アニメ涼宮ハルヒの憂鬱第9話『サムデイ イン ザ レイン』を見た。すごかった。すごいよかった。 そんなわけで、個人気に思ったことを書きなぐっていきたいと思う。 そうそう、以下ネタバレありまくりなので注意。 ネタバレ含む本文までの仮置き。 もう一度言っておくけど、 主観含みまくりで書きなぐったものなので むちゃくちゃな推測含むけど そのへんは適当に読み流してください。 2つのタブー まず、今作はアニメオリジナルのストーリーなのですが、脚本は谷川流。そうです、アニメの原作でもある小説版の作者です。この時点で単なるアニメオリジナルという粋から外れます。 そして、今作では涼宮ハルヒシリーズの約束事の2つが破られています。極端な言い方をすると、2つのタブーを犯しているわけです。 ひとつめは、何も事件がおきないこと。 そもそも、この物語はハルヒを中心として巻き起こる、日常の中の非日常がテーマだと思いま
http://fujimaki.air-nifty.com/mousou/cat5851709/index.html(妄想界の住人は生きている。) このアニメシリーズを全14話として見た場合、今回は超監督言うところの第14話で、シリーズの最終回という位置づけになります。 でも、実際にその「第14話」を見てみて、このシリーズ構成の意図がまた少し見えたような気がします。 今回を「最終回」と言うならば、最終回が二つあることになるんですね。 ハルヒが言うところの最終回(今回)と、シリーズそのものが終わる最終回(もう数回後)と。 そのことで言うと、今回は「キョンにとっての最終回」という見方ができるのかもしれません。 つまり、時系列順で見た場合「キョンの物語」になって、シリーズ構成順で見た場合「ハルヒの物語」になる、ということですね。 すばらしい文章。単なる祭りでない、製作意図があるということなのね。
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