ブックマーク / sivad.hatenablog.com (5)

  • 赤の女王とお茶を - 感情の暴走は相手の感情を想像することから始まる

    俺の何が正しくて、何が至らないのか、教えてください。 大変でしたね。コメントしましたが、私の周りにも何人か同じような事態に悩む方がいて、相談に乗ったことがあります。 今回のトラブルは基的にはこちら無能なプロマネに振り回されることはねえって。でおっしゃっているように、立ち向かえば勝てるケースだと思います。こうやって環境自体を変えていくことこそが最も「正しい」対応だと思いますが、事情によってはなかなか戦えないこともあります。 そんな時は、「とりあえず」自分の心を防衛する必要があります。 最近流行の罵倒問題とか、あるいは先日からmojimojiさんとお話していた「想像力」「切断」の件とも絡むんですが、大体において感情の暴走、「カッ」とする、激昂するという現象は「相手の感情に触れる」ことから起こります。 罵倒や皮肉の文言自体ももちろんムカつくんですが、それそのものより、その背後の相手の嘲りや見下

    赤の女王とお茶を - 感情の暴走は相手の感情を想像することから始まる
  • 赤の女王とお茶を - Youtubeで読むジャズ史「東京大学のアルバート・アイラー」(その1)

    菊池成孔師匠の例の読んでます。歴史編、通称「青」のほうですね。 東京大学のアルバート・アイラー―東大ジャズ講義録・歴史編 作者: 菊地成孔,大谷能生出版社/メーカー: メディア総合研究所発売日: 2005/05/01メディア: 単行購入: 5人 クリック: 74回この商品を含むブログ (185件) を見る流石に面白い。 人が言うように、かなり和声主義的な「バークリー史観」ですから異論は多いと思いますが*1、ジャズを手っ取り早く俯瞰するには最良の書ではないでしょうか。特に聴くだけでなく「やってみたい」人向きには随一だと思います。 しかしモノは音楽、ことにジャズ。やっぱり聴いて、見てナンボですよね。 ここは一つ、みんな大好きなYoutubeを使って(Web2.0!)菊池流ジャズ史を追ってみようではありませんか。 プレ・モダン・ジャズ 「モダン」成立以前のジャズです。ブルーズやゴスペル、

    赤の女王とお茶を - Youtubeで読むジャズ史「東京大学のアルバート・アイラー」(その1)
    jasmineoil
    jasmineoil 2008/07/28
    ジャズってすてき:)
  • 近藤・ジョースターには夢がある - 赤の女王とお茶を

    jkondoのヘタれっぷりに絶望した! いや!策はあるぜ たったひとつだけ策はある! とっておきのやつだ ジョースター家には伝統的な戦いの発想法があってな… ひとつだけ残された戦法があったぜ それは… 「逃げるんだよォォォ----------ッ」 いやあやはりジョジョは最高ですね。特にジョセフ。カッコいい逃げっぷりだってあるんですよ。 技術的なことをいう能力は私にはないのだけれど、はてなの思想がつながりやコミュニティにあるのなら、アメリカと日では状況が全く違うわけで。 梅田さんは「あっち」「こっち」と分けてしまうけど、アメリカはWeb以前から既にリアルなネットワーク社会であって、コミュニティの集合体こそがアメリカなんですよ。そういう裏打ちの上にWebが乗っかっている。 だからおそらく、「ネットによって皆をつなげよう」とする近藤さんの問題意識は日特有のもので、アメリカには馴染まなかったん

    近藤・ジョースターには夢がある - 赤の女王とお茶を
  • 赤の女王とお茶を セックスは生殖のためにあらず

    とまでは言いすぎなんでしょうけど。 Inspired by 日及び海外婚姻事情. 大体、「種の子孫を残すため」にしては「セックス」という行為は手間ヒマかかりすぎると思いませんか? 有性生殖が大事ならチャッチャと手早く済ませればいいものを、ことに高等動物の「セックス」というやつは何かと面倒な手続きが多い。 何故か? それは、セックスとは「性淘汰」における「戦場」だからなのです*1。 戦うのは誰か? そこには二つの戦いがあります。 1.異性間での戦いと、2.同性間の戦いです。 異性間の戦いとはつまり「いかにうまく異性を惹き付けるか」であり、同性間の戦いとは「いかにうまく他の同性を出し抜くか」の争いを意味します。 ただ高等動物の場合メスが出産や産卵というコストを担っているため、そこには非対称性が生じます。 1.においては、オスはいかにメスを惹き付けるか、そしてメスはいかに自分(の子)に都合のよ

    赤の女王とお茶を セックスは生殖のためにあらず
  • 学問に潜む価値判断について - 赤の女王とお茶を

    疑似科学、批判、道徳。 や、 dojinさんへの応答 を読んで感じたんですが。 まず、 「科学は価値判断を含まない」 ということ、これは科学とは「地図」であるでも書いたように、基的には正しいと思います。科学は"How"を明らかにするけれど、"Why"には答えない、というのはつまり、道筋を明らかにはするけれど目的地を決めるわけではない、ということです。 生命や宇宙が「どのように」存在しているのか、存在してきたのかを探る方法ですが、「なぜ」そうでなくてはならないのか、という究極には答えない。 …とはいうものの、主観的な価値判断と科学・学問が無縁かといえばさにあらず。 専攻する分野によって、なんとなく価値観が似てくるというのは経験的にはよくあることですね。 それはやはり、科学といえども単なる分析方法だけではなく、一種の「世界観」、つまり価値判断を予め含んでいるからではないでしょうか。 それが「

    学問に潜む価値判断について - 赤の女王とお茶を
  • 1