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■個人的なことは政治的なこと というテーゼがかつてフェミニズム方面から出されて(最初に言ったのが誰かは知らないんですが)、そのおかげでセクハラだとかDVだとかのプライベートな人間関係の個々人の人間性の問題だとされていたことが実は社会に蔓延している「男は女を好きなようにしていい」という男性優位的な価値観とつながっている社会的(そして政治的)な問題でもあるということが明るみに出たわけだが。それとはまったく違う形の「個人的なことの社会化」がどんどん進められているような気がする昨今の状況。 どんな生き方するかとか何を食べるかとか恋愛するかしないかとか性格だとかコミュニケーション能力だとか「やる気」だとか身だしなみとか健康管理とかどこに住むかとか子ども生むとか生まないとか… そういった本来「そりゃー社会のあり方の影響も受けているかもしらんが人それぞれでいいも悪いもないだろう」(そしてどんな選択であっ
2024 1月 - janvier 2月 - février 3月 - mars 4月 - avril 5月 - mai 6月 - juin 7月 - juillet 8月 - août 2023 1月 - janvier 2月 - février 3月 - mars 4月 - avril 5月 - mai 6月 - juin 7月 - juillet 8月 - août 9月 - septembre 10月 - octobre 11月 - novembre 12月 - décembre 2022 1月 - janvier 2月 - février 3月 - mars 4月 - avril 5月 - mai 6月 - juin 7月 - juillet 8月 - août 9月 - septembre 10月 - octobre 11月 - novembre 12月 - décembre
人生が一回しかない、という言い方は、厳密に考えればへんな表現なのかもしれないが、実感としてはそうとしか言いようがない。 70歳になっても80歳になっても、また生まれたばかりの赤ん坊であっても、その人にとっては、それは「初めての人生」だ。 二度生まれる人はいないし、50歳になるのが二度目である人も、100歳になるのが二度目である人もいない。そしてもちろん、死も、誰にとっても初めて経験することである。 そこで、他人が死んでいくとき、投げかけるべき最後の言葉は、「どうでしたか、初めての人生は」というものになるのではないだろうか。 まともに考えてしまうと、この言葉は、ぼくにはあまりにも重い。 でも、他人にこの言葉を投げかけることが、自分がこの人生を生きていることの意味なのかもしれない。 人生が一回限りしかないということ、そして、その一回限りの生を誰でもが与えられているということの意味はなんだろう。
a. いつものごとく、「ながら見」で詳しくはよくわからないのだけど、NHKで、数字に関する認識能力の高い人の番組をやっていた*1。「2040年2月13日は何曜日?」だとか、「17の7乗はいくつ?」という問題に答えたりする…日本では「びっくり人間コンテスト」に出てきそうな話題なのだけども、それを真面目に研究している人がいるよ、という話。 そういう能力(以下「能力」)を持つ人の脳の中の数に関する処理構造は、数そのものが持つ構造にマッチしている、ということらしい。 「能力」を持った人の頭の中で、「かけ算」はどのように処理されるのか、というのを、イメージ映像で作っていたのが面白かった。両側に二つの数の「かたち」を思い浮かべて、その間の空間にぴったりあてはまる「かたち」を探す、のだそうだ。そして、その「かたち」を読むことによって、徐々に数が明らかになってくる、というのだ。 「素数がなめらかだ」とか「
水増されば舟高しモットーは「日々進歩しなければ今日の自分は昨日の奴隷である」。料理、スポーツ、書籍、美術、現代社会問題を通じ、ステキで自立し自律した大人とは何かを考えるブログ 僕は最初の大学4年生の時、交通事故にあったことがある。 その事務処理で面白かったのが、慰謝料の算出方法だ。 慰謝料ってどうやって計算するか知ってます? 病院の通院回数が基本になるのですよ。 1回あたり4100円なので、2回行くと8200円貰えることになる。 もうちょっと行っちゃおうかなとか思ったけど、全治2週間と診断されたし、そんな何度も行くのも面倒だ。結局4回か5回ぐらいしか行かなかった。きっとがめつい人は何かと理由を付けて毎日通っちゃったりするんだろうな。 でも、慰謝料が通院回数×4100円だとはね。思いもよらなかった。 その後興味があって、交通事故の補償について調べたことがあった。 調べて、なるほど、と思った。
平和への道─フルブライト奨学金が目指したものとは 「この留学生計画は、米国と世界中の若者が互いの国の実情をよく知り合うことによって、意見の相違、対立は話し合いでこそ解決すべきで、武力で制圧すべきではない、という共通認識が広がることを期待してつくったものだ。だれしも自分の友人に銃を撃つことはできないはずだし、そんなことが起きてはならないからだ」 「ウェブ進化論」P75から 月に10万円稼ぐにはテーマ性の高い人気サイトを作らなければならないからたいへんだが、月数万円規模ならば少々の努力で、月数千円規模ならかなりの確率でたどりつく。家に引きこもって、ウェブサイトを通じてネット世界とつながっているだけど、リアル世界で通用する小遣い銭が自然に入ってくる仕組みである。 「なんだ、ケチな話をしているなぁ。それだけじゃ喰えないだろ」 などと言うなかれ。それはフルタイムの安定した仕事に従事する「持てる者」の
二十五歳のときに人生に絶望した。もともと二十歳以降まで生きているのが奇妙な感じではあった。が、二十代というか、大人になった自分というのは、へぇという感じだった。臙脂色の緞帳が上がるがごときだった。歳相応の未熟な恋もしてそして破れそして忘れた。忘れるものだ。が、無意識のなかの私はたぶん時を忘れてないのだろう、というか、もうひとりの私はなんとなく私の死後までこの太虚のなかにミームとして残るというか、そこを胎としてまた私のような意識が生まれるのだろう。私のような自意識。凡庸というサンサラ。 絶望というのは奇妙なもので、字義にすれば望み絶たれるであろうし中国古典でも読むような大望果たせずみたいなものであろうし、人によってはそういうものかもしれないが、絶望というのはもうちょっと変なものだ。生きている意味も意識もなく身体が生きているというのだろうか。この世界と身体と意識の奇妙な、そうあれは昔の遊園地に
ブログだったか他の記事だったかごく最近のことだが、ネットを眺めていて、このところ何回か、「あなたたちの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」というヨハネ八章の聖句を見かけた。いや、正確に言うと「罪を犯したことのない者が」という表現だったと思う。そのあたりで、あれ?という感じがした。この聖句の引用のされかたの文脈もあれれ?という感じがしたが、それは以前からそうでもあるのだが。 「罪を犯したことのない者が」としている日本語の聖書があるのだろうかと疑問に思った。福音派の新改訳だろうか。自分ではカトリックの響きがするなと思って、ちとグーグル先生に聞いてみると新共同訳のようでもある。カトリック教義との妥協的な表現なのか、あるいは日本語だと「罪」という言葉につられて「犯して」という成語になっただけだろうか。手元にギリシア語の聖書がないのだがここでの「罪」αμαρτιαだろうか。ヨハネ書な
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