歴史[編集] 1785年(天明5年):天明の別れ 4月18日から始まり5月頃まで続いた天明の大噴火が青ヶ島の最も新しい噴火である。当時327人いたとされる島民のうち202人が八丈島からの救助により避難するも、避難に間に合わなかった残りの者は全員が爆発に巻き込まれて死亡したとされる。 八丈島での避難生活は、時には流人以下の扱いを受けるという悲惨なものであった。これは、不作続き(天明の大飢饉)で八丈島民だけでも食うのがやっとであったにもかかわらず、幕府が避難民の他地域への移住を認めなかったこと、さらに八丈島の流人はもともと武家など身分の高い人物もいたこと等の事情による。 かつての豊かな青ヶ島を夢見て帰島を企てる者も幾度かあったが、航海の途中で遭難したり、無事に辿り着いても噴火で荒廃した土地では生きていけなかったりして、叶わなかった。 1817年(文化14年) 佐々木次郎太夫が名主となり、彼の周
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