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ブックマーク / blog.goo.ne.jp/jikisaim (117)

  • 他者とペット - 恐山あれこれ日記

    最近よく世間で聞く言葉に「共生」と「多様性」があります。この言葉にどのような意味を読み取るかは、人それぞれかもしれせんが、私はこれはそう簡単に扱える文句ではないと思います。 我々の社会の問題として「共生」と言うなら、その最も直接的な意味は、自己と自己ではない誰か、つまり他者との「共生」でしょう。だとすると、「多様性」とは、その他者が人種、民族、言語、文化的・宗教的背景などで様々に異なることを言うのだと思います。だとすれば、話の要点は、「多様な他者との共生」ということになり、これは簡単なことではなく、その実現には、すでに言われているように「寛容さ」、もっとはっきり言えば忍耐が必要だと思います。 なぜなら、そもそも、「他者」とは根源的に「わからない」存在だからです。このわからなさは、死のごとき「絶対的わからなさ」とは、すこし性格が違います。他者のわからなさは、原理的な理解不可能性ではなく、わか

    他者とペット - 恐山あれこれ日記
  • 勉強のさせ方 - 恐山あれこれ日記

    新型ウイルスの問題で落ち着かない日々が続きますが、時あたかも入試番の頃あいです。受験生の皆さんには、どうか無事に日ごろの努力の成果を出しきっていただきたいと、願うばかりです。 だいたい、前の年の秋ぐらい、つまり受験生とその親たちが焦りを感じ始めるあたりから、親である私の知り合いや檀家から、「この子、ちっとも勉強しないんです。方丈さんから勉強するように言って下さい!」と迫られることが多くなります。 学校嫌いだった私が勉強を真面目にしたはずもなく(試験は入試も含め、一夜漬けか突貫工事)、他人様にそんなことを言えるはずがありません。そういうときには、まず親に意見することにしています。 「ぼくだってしなかったのに、そんなこと言えないよ」 「でも、方丈さんはしなくてもデキたから」 「ちがうよ、尻に火がついてから突貫工事で滑り込んだんだよ。まともにやってないのは、ほんとうだもん。言えないよ。それにさ

    勉強のさせ方 - 恐山あれこれ日記
  • 門だけの家 - 恐山あれこれ日記

    思いつき禅問答シリーズ。(これで何回目か?) ある修行僧が趙州従諗禅師に質問しました。 「禅師は何ものなのですか?」 即座に禅師は言いました。 「東門、西門、南門、北門、だよ」 この問答は、普通は次のように解説されます。 冒頭で修行僧は「来の自己」、あるいは「真実の自己」とは何かを問うている。これに対して、禅師の答えた四つの「門」は、要するに方便として使う言葉のことだ。 つまり、「来の自己」そのものを言葉で表すことはできないから、様々な方便で「真理」の在り処を比喩的に示すほかはない。それは門構えから中にある屋敷を想像させるようなものなのだ。 私はこの解釈をとりません。禅師が門にしか言及しない以上、中に屋敷があるかどうかなど、わかりません。「門だけしかない家」なのかもしれません。この場合、「家」が「自己」で、「屋敷」が「来の自己」を意味します。 もし、門以外どうしても見ることができない

    門だけの家 - 恐山あれこれ日記
  • 死をめざして生きる - 恐山あれこれ日記

    仏教のまとまった戒律として最も古い「パーリ律」を見ると、殺人について次のように述べています(「人体戒」)。 「いずれの比丘であっても、故意に人体の生命を奪うならば、あるいはそのために殺害の道具を持つ者を求め、あるいは死の美を賛嘆し、あるいは死を勧めて、『ああ、君よ、この悪しく苦しい生は、あなたにとって何の役にたつのか。死はあなたにとって生に勝るだろう』と言い、そのように思い、そのように決心して、いろいろな方法で死を賛美し、あるいは死を勧めるなら、これは波羅夷罪であって、(これを犯す者は)共に僧団に住むべきではない」 条文解釈の部分では、「人体」に胎児が含まれています。「波羅夷罪」は教団追放になる仏教の最重罪を言います。 これを一読すると、殺人、殺人教唆、堕胎の実施、自殺教唆が禁止されていることは、すぐにわかるでしょう。安楽死や尊厳死が許容されるかどうかは微妙なところでしょうが、少なくとも積

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  • 銭湯の孤独 - 恐山あれこれ日記

    その頃、私は午後の4時に銭湯に行っていた。べて寝て、を読んで屋に行くこと以外、ほとんど呆然としながら生きていたこの時期、銭湯で風呂に浸かるときだけ、自分をナマものだと感じたものである。 行きつけの銭湯には、かならず私より早くやって来るヤカン頭の爺さんがて、私が初めてそこに行った日、湯船の湯のあまりの熱さに水で埋めようとしたら、 「こらっ! 埋めるんじゃねェ!!」 と、ドスの利いた声で一喝された。 その後、とにかく毎日のように一緒になるので、おそろしく熱い湯に我慢して浸かっているうちに、四方山話などするようになった。 あの日は晩秋で、底冷えしていたので、私は多少急ぎ足で銭湯に向かった。すると、前の方から爺さんが首をすくめて歩いてきた。そしてすれ違いざまに短く、 「おい、今日はいけねェよ」 何がいけないのかテンでわからなかったが、私は聞き捨てて爺さんとすれ違い、銭湯の暖簾をくぐった。と、

    銭湯の孤独 - 恐山あれこれ日記
  • しています、したいです。 - 恐山あれこれ日記

    昨日、青森県内有志の曹洞宗僧侶の方々と『正法眼蔵』の講読をしてきました。2回目です。前回がプロローグで、今回から「現成公案」の巻に取り掛かりました。お招きのある限り頑張りたいと思っています。 始めて1年余り過ぎた、永平寺での修行僧とのワークショップ形式の月例講義は、「現成公案」の巻が終了し、次回から「摩訶般若波羅蜜」に入る予定です。 これらとは別に、2、3年以内に一般公開の『眼蔵』講義ができないものかと思案中ですが、いまのところ予定は未定で、恐縮ながら、まだ確かなことは言える段階ではありません。 ただ、私はこの講義をはじめとして、全巻講読することをライフワークにしたいと考えており、出版も希望していて、すでにある社に打診しています。 この企画の狙いは、従来の『眼蔵』解釈のパターンを拙読で断ち切り、これまでとは違う読み方を提示することにあります。 その場合の「違う」読み方とは、以下の2点につい

    しています、したいです。 - 恐山あれこれ日記
    jiangmin-alt
    jiangmin-alt 2019/11/01
    "これらとは別に、2、3年以内に一般公開の『眼蔵』講義ができないものかと思案中ですが、いまのところ予定は未定で、恐縮ながら、まだ確かなことは言える段階ではありません。"
  • 仏教のプラグマティズム - 恐山あれこれ日記

    我が宗の祖、道元禅師の家風(一門の指導者としての気風)は、よく「綿密」とか「厳格」と形容されます。 実際、道場における修行の作法や儀式の手順は綿密極まりなく規定されていて、その実行はおそろしく峻厳なものでした。 入門当初は、石が肉に見えるほど空腹なのに、事作法の複雑さに圧倒されて、文字どおり「喉を通らない」思いをしたり、大掛かりな法要の練習をしていたら、集中のあまり脱水状態になって気絶する者が出た頃を思い出すと、ほとんど「カルト的」とでも言いたくなる日々でした。 ところが、そのような日々の最中、時に禅師の著作を読んでいると、拍子抜けどころか、修行僧が愕然とするような文章に出会うことがありました。 足の痛みに耐えて必死の坐禅をしているのに、「数ある修行法の中で何故坐禅ばかりを勧めるのか」という問いに、禅師は「お釈迦様以来、歴代の祖師方がみな坐禅で仏法を会得したからだ」などと、ほとんど理由に

    仏教のプラグマティズム - 恐山あれこれ日記
  • 三つの難題 - 恐山あれこれ日記

    今後の社会における決定的な問題は、環境問題、AIとバイオテクノロジーの劇的進展から生じるでしょう。この件に関しては、過去の記事でも何度か触れましたが、ここでもう一度整理して起きたいと思います。なお今回は、環境問題には触れず、AIとバイオテクノロジーの発達から想像される我々の「実存」の問題に絞ります。 1.AI・バイオテクノロジーと「労働」 私がここで問題とするのは、AIの進化が「人間の労働を奪う、人間が無用化する」、という「失業」問題ではありません。そうではなくて、「職業」がアイデンティティーの核心を締めていた「近代人」の実存の仕方が、構造的に変わらざるを得ないということです。 自分が何者であるかを、「職業」を拠りどころに意識していた実存は、次は何を拠りどころに「自己」を規定するのか。その規定のツールを誰がどう与えるのか。 同じような事態は、バイオテクノロジーの発展による、寿命の極端な延長

    三つの難題 - 恐山あれこれ日記
    jiangmin-alt
    jiangmin-alt 2019/10/02
    "「失業」問題ではありません。そうではなくて、「職業」がアイデンティティーの核心を締めていた「近代人」の実存の仕方が、構造的に変わらざるを得ない"
  • 思うんですが。 - 恐山あれこれ日記

    時々相談者と面会するのですが、最近どうも増えていると思うのは、男女を問わず、30歳前後の世代で、何か過剰に他人の視線を気にするように見える人です。 先日は、30歳の男性歯科医という人と面談しました。彼は歯科医として実際に診療するようになって今年で3年。にもかかわらず、もう辞めてしまおうかと言うのです。 彼は大学を出て、某有名歯科医院に就職したのですが、1年目に患者に治療について、出来が悪いとかなり強い苦情を持ち込まれたのだそうです。さらに、この医院のオーナーで、業界では高名な院長からも叱責され、要するに自信喪失状態に陥ってしまいます。 その結果、同僚との関係も気まずくなり、彼はその医院を辞め、今はアルバイト的立場で別の医院で働いて1年経ったところだそうでいるのだそうです。 「あなた、今のクリニックで苦情は?」 「ありません」 「院長から何か怒られた?」 「全然」 「じゃ、なぜ辞めなくちゃい

    思うんですが。 - 恐山あれこれ日記
    jiangmin-alt
    jiangmin-alt 2019/09/23
    "時々相談者と面会するのですが、最近どうも増えていると思うのは、男女を問わず、30歳前後の世代で、何か過剰に他人の視線を気にするように見える人です。"
  • 「師匠」の困難 - 恐山あれこれ日記

    思いつき禅問答シリーズ。 ある禅師が修行僧を集めて言いました。 「お前たちは皆、酒糟で酔っている連中だな。そんな体たらくであちこち修行に歩き回っても、今日悟りを得ることなどできないぞ。そもそも、この国に禅師などおらんんことを知っているのか」 すると、修行僧の一人が質問しました。 「では、あちこちにいる、修行僧を教え導いている人は、どうなんですか?」 「禅(の悟り)が無いとはいわん。ただ、その師がいないのだ」 この禅問答の中で「酒糟に酔う連中」とは物の酒を知らない者の喩えで、いい加減な仏法の知識に満足して、正しい仏法を知らないことを言います。 この問答の通常の解説はおおよそ次の通りです。 「禅の教えが無いとは言わず、師がいない」とは、要するに「禅(の悟り)」とは、修行者人の直接的な体験、心によって内面から体得されるものであって、それを教えられるような「師」はいないのだ。 この解釈は、ただ

    「師匠」の困難 - 恐山あれこれ日記
  • 「死」の消去 - 恐山あれこれ日記

    新刊で、無常・無我・縁起の教えを標榜する「仏教に輪廻説は不要であり、捨てるべきだ」と公言したところ、あちこちから反論や批判が聞こえてきました。 そのほとんどは、拙著の中で言及した「無我輪廻説」の類で輪廻のアイデアを擁護しようというものでしたが、それとは別に、上座部・大乗、様々な経典・論書を引いて無我説と輪廻説の矛盾を解消しようとする主張がありましたので、これについて私の意見を述べておきます。 その主張は大よそ以下のようなものです。すなわち、 人間は、仏教で言う五つの存在要素(五蘊)で構成されていて、そこに霊魂のような実体はない。その彼が死ぬと、彼の五要素は捨てられ、「中有の五蘊」なる状態に転移し、その後次の母胎に入って、来世に生まれるのである。だから、「霊魂」などは存在せず、無我説と輪廻説はなんら矛盾しない。 以上の考え方のナイーブさは、一目でわかるでしょう。すなわち、 人間が何で構成され

    「死」の消去 - 恐山あれこれ日記
  • 思いつきいくつか - 恐山あれこれ日記

    今や、元気は「出す」ものではなく「もらう」ものであり、意見は「私的に」言うものであって、「私が」言うものではない。 皆で協力しよう!、と声高に言う人間が、協力の結果一番得をする場合が多い。 正しいと思ったことを繰り返し言う人より、往々にして、繰り返し言えば正しくなると思っている人の方が、強い影響力を持つ。 根的に愚かな人間は、自分が言う場合も言われる場合も、批判と誹謗の区別がつかない。 器の大きい人とは、仕事を他人に任せることができて、結果の責任を自分で取る人であり、器の小さい人はその真逆である。 脳と意識の区別をつけずに論じる人は、地図に人が住めると考える人と変わらない。 老いと病に馴染むこと、他人を無条件に赦すこと。それを少しずつできるようにしていくことが、死ぬ練習なのだ。

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  • 二つの諦め - 恐山あれこれ日記

    仏教には「勝義諦(第一義諦)」と「世俗諦」という言い方があります。教義的立場によって解釈は様々ですが、たとえば中観系の解釈だと、おおよそは以下のようになるでしょう。 「勝義諦」は、「空」「悟り」「解脱」「涅槃」など、仏教の究極的境地や認識を意味し、これは言葉で表現することができない「真理」だとされます。 これに対して「世俗諦」は、そうは言っても、何も言葉で表現しなければ、「真理」の存在さえ知ることはできない。この言語化された限りでの「真理」を「世俗諦」と言うわけです。 この二諦説が俗化すると、仏教来の真理(勝義諦)は世間を超越しているから日常生活と無縁になる。であるから、それはそれとして、日々の暮らしは世間の法律や習慣・道徳(俗諦)に随順すべきだという、安直な二元論に堕することとなります。 では、私流に二諦を解釈するとどうなるでしょうか。 「勝義諦」には二つの側面があります。 一つは、そ

    二つの諦め - 恐山あれこれ日記
  • どこでも、いつでも、ちょっとでも - 恐山あれこれ日記

    「お前が今度出すの表紙に、でかでかと坐禅姿が載ってるぞ。いい度胸だなあ!」というメールが知人から来ました。 7月発刊予定のそのでは、坐禅の作法を紹介する章の口絵写真と体につける帯に、私の坐禅姿を使いたいという話を編集者からされて、何枚か写真撮影をしたのですが、表紙になるとは知りません。 言われた通り、ウェブ上のショップで見てみると、なんと!?! 帯と言うからには、の三分の一程度の幅で、その右隅に私の写真がちょこっと使われ、残りに宣伝文句が入ってるのだろうと漠然と思っていたら、帯が全体の三分の二以上を占め、そのど真ん中に大きく私の坐禅姿があるのです。 仰天です。その上「南流仏教入門書ついに成る!!」「私の考える仏教」などという惹句がついています。 これはやりすぎだよお・・・・はずかしいよお・・・・出す前におしえてくれよお・・・・ しかし、もう時すでに遅し! ただ、呆然としながら、しば

    どこでも、いつでも、ちょっとでも - 恐山あれこれ日記
  • 『中論』の難所 - 恐山あれこれ日記

    ナーガールジュナの『中論』を読んでいて、最後にどうしても引っかかるのは、第26章の内容をどう考えるか、という問題です。 第26章は、いわゆる十二支因果(無明―行―識ー名色ー六処ー触ー受ー取ー愛ー有ー生ー老死)の教説を、一見上座部の胎生学的理解そのままに、紹介しています。それまでの各章で、諸々の事象の実体論的解釈をすべて排却して、原因や結果の概念(因果律)や輪廻の実体論的解釈さえ否定しているにもかかわらず、何故いまさら上座部の解釈(実体視した十二支の因果関係を前世・現世・来世の三世にわたって配当する)を導入するのでしょうか。 この問題は、我々が『中論』を読む場合、なかなか腑に落ちる解釈が思い浮かばない難所となっています。 よく言われる解釈は、前25章は出家者向けの義の教えを説き、第26章には、在家向けの「輪廻転生」説を根拠づける十二支因果を導入したのだ、というものです。 私は、この種の解釈

    『中論』の難所 - 恐山あれこれ日記
  • 「今」と「而今」 - 恐山あれこれ日記

    時として、「いま・ここ」に集中するのが禅の教えだとか、「いま・ここ・自己」に徹底するのが仏教だとかいう言い方がされますが、私はこれはあまりにナイーブだろうと思います。というのは、その「いま」「ここ」「自己」が具体的にどのような事態を言うのか、皆目わからないからです。 このような言い方がされるとき、「いま」は、均質に流れる川のような時間がそれ自体としてあって(絶対時間)、それを微分して析出された「点的時間」(瞬間)を漠然と考えているのでしょう。同じように、何もかもが位置づけられる巨大な箱の如き空間(絶対空間)があり、これを極限まで限定した局所的空間として「ここ」はイメージされていて、この座標的な時空間に、それ自体として存在する「自己」が位置づけられているのでしょう。 ところが、仏教においては、涅槃や悟りを目指して修行する以上、その「いま」「ここ」は未来のどこかに初めから開かれていて、「成仏」

    「今」と「而今」 - 恐山あれこれ日記
    jiangmin-alt
    jiangmin-alt 2019/05/22
    "日常的に意識される「いま」「ここ」も、「自己」同様、他者に媒介されて成立する観念でしょう"
  • 果てしなく遠い道 - 恐山あれこれ日記

    こういう有名な禅問答があります。ある老師が弟子たちに問いかけました。 「15日までのことはもういい。15日から後はどうだ? 一言、言ってみなさい」 弟子たちが返答できず押し黙っていると、老師は自ら彼らに代わって言いました。 「毎日よい日だな(日日是好日)」 この禅問答の解釈も様々で、日々の良しあしなどという妄想を捨て、今この時限りを懸命に生きる、ありのままの姿こそ、釈尊の悟りなのだ、というような解説がよくなされます。 ですが、私はこう考えます。 「15日」とは「悟り」の言い換えです。ですから、最初の老師の問いは、「悟る前はもうよい。悟ったらどうなるのか言ってみろ」ということなのです。 この問いに自ら答えた老師の言い分は、毎日が好い日なら、「好い」「悪い」を区別する意味がなくなる、ということです。 これを「悟り」で言うとこうなるでしょう。 もし悟ったらどうなるか言えるなら、それは悟りの状態と

    果てしなく遠い道 - 恐山あれこれ日記
  • あと2日 - 恐山あれこれ日記

    このところメディアで続いていた平成回顧と新元号をめぐる喧噪も、あと2日。便乗するわけではありませんが、30から60歳までの30年が重なる私としても、多少の感慨がないでもなく。とりとめのない話をさせていただきます。 昭和の終わり・平成の始まりの1989年、私は修行道場で丸4年が経つ頃でした。この年から、新聞が自由に読める立場となって、一気に外部の情報に接することが多くなった私にとって、非常に印象深かったのは、出生率が1.57になったという記事と、「ベルリンの壁」崩壊のニュースでした。 前者は「1.57ショック」とも呼ばれました。それは、丙午の迷信で出生率が大きく下がる年よりも、この1989年、さらに低くなったからです。格的な少子高齢化の始まりでした。 少子化に注目したのは、1984年(私が出家した年です)に伊丹十三監督の「お葬式」という映画が発表されたことを、この年に知ったからです。この映

    あと2日 - 恐山あれこれ日記
    jiangmin-alt
    jiangmin-alt 2019/04/02
    "昭和の終わり・平成の始まりの1989年、私は修行道場で丸4年が経つ頃でした。"
  • 破杓庵問答 - 恐山あれこれ日記

    「問う。如何なるか是れ幸福」 「今日と同じ明日がくることを信じていて、しかも信じていることを忘れている状態」 「如何なるか是れ真理」 「アクセサリーみたいなもんだ。無くても構わんが、無いと寂しい」 「如何なるか是れ死」 「後ろの正面と同じ。見えたらただの正面で、後ろではない。誰も見たことがないのに、その話はできる」 「如何なるか是れ生」 「空気だな。感じることはできるが、つかめない」 「如何なるか是れ希望」 「蛍光灯。明るい時にはいらない。いちおう予備もあったほうがいいけど」 「如何なるか是れ絶望」 「落とし穴。落ちても底無しということはない。ただ、底抜けしないうちに出る算段がいる」

    破杓庵問答 - 恐山あれこれ日記
  • 理解の不理解 - 恐山あれこれ日記

    「理解する」「わかる」と言うとき、それは何を意味しているのでしょうか。 一つは、事象Aと事象Bとの間の対応関係を記述して、「理解した」「わかった」と言う場合です。例えば、脳の物理的・化学的過程と意識現象の対応関係を記述して、「意識が解明された」と称するときなどです。 意識の場合、対応関係の記述で「理解」とするのは、無理があります。なぜなら、「怒る」という現象を脳の物理的・科学的過程として解明したとしても、「自分が正しい」という「信念」も持たない者は怒れないからです。「自分が正しい」を科学的に解明することは不可能でしょう。 もう一つは、事象AとBを因果関係で説明できたときに、「理解した」と考えることです。つまり「AによってBが起こった」と説明することをもって、「理解した」と考えることです。 すぐにわかるように、この説明にも難があります。つまり、同じ事象に複数の因果関係を設定でき、どれが正しい

    理解の不理解 - 恐山あれこれ日記