エントリーの編集
![loading...](https://b.st-hatena.com/bdefb8944296a0957e54cebcfefc25c4dcff9f5f/images/v4/public/common/loading@2x.gif)
エントリーの編集は全ユーザーに共通の機能です。
必ずガイドラインを一読の上ご利用ください。
記事へのコメント1件
- 注目コメント
- 新着コメント
注目コメント算出アルゴリズムの一部にLINEヤフー株式会社の「建設的コメント順位付けモデルAPI」を使用しています
![アプリのスクリーンショット](https://b.st-hatena.com/bdefb8944296a0957e54cebcfefc25c4dcff9f5f/images/v4/public/entry/app-screenshot.png)
- バナー広告なし
- ミュート機能あり
- ダークモード搭載
関連記事
二つの諦め - 恐山あれこれ日記
仏教には「勝義諦(第一義諦)」と「世俗諦」という言い方があります。教義的立場によって解釈は様々で... 仏教には「勝義諦(第一義諦)」と「世俗諦」という言い方があります。教義的立場によって解釈は様々ですが、たとえば中観系の解釈だと、おおよそは以下のようになるでしょう。 「勝義諦」は、「空」「悟り」「解脱」「涅槃」など、仏教の究極的境地や認識を意味し、これは言葉で表現することができない「真理」だとされます。 これに対して「世俗諦」は、そうは言っても、何も言葉で表現しなければ、「真理」の存在さえ知ることはできない。この言語化された限りでの「真理」を「世俗諦」と言うわけです。 この二諦説が俗化すると、仏教本来の真理(勝義諦)は世間を超越しているから日常生活と無縁になる。であるから、それはそれとして、日々の暮らしは世間の法律や習慣・道徳(俗諦)に随順すべきだという、安直な二元論に堕することとなります。 では、私流に二諦を解釈するとどうなるでしょうか。 「勝義諦」には二つの側面があります。 一つは、そ
2019/07/11 リンク