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ブックマーク / jin07nov.hatenablog.com (108)

  • その壁は何を意味し、何のためにあるのか? 「街とその不確かな壁」 - ほんだなぶろぐ

    前回の長編小説である「騎士団長殺し」から6年ぶりに出た新作長編がこの「街とその不確かな壁」だ。「騎士団長殺し」でも感じたことだが、この作品は新作であると同時に集大成的な意味合いの強い作品だと思う。(騎士団長殺しのレビューはこちら) 著者のあとがきにも書いてあるが、この小説は自分の作品のリメイク、セルフリメイクだ。初回が1980年に発行された「街と、その不確かな壁」。文芸誌には収録されたものの、村上春樹自身がこの作品を失敗作だとして刊行していない。それをリメイクしたのが、1985年に発行された「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」。そして2023年、著者が74歳現在で出版されたのがこの新作「街とその不確かな壁」だ。この三作品をすべて読んだことがある。話は違うが同じモチーフに挑戦した作品という印象だ。なぜそんなことをしたのかといえば、おそらく著者にとってこの「壁に囲まれた静かな街で夢読

    その壁は何を意味し、何のためにあるのか? 「街とその不確かな壁」 - ほんだなぶろぐ
    jin07nov
    jin07nov 2023/06/07
    街とその不確かな壁の書評を書きました。
  • ごはんを作ったのはだれか?「おいしいごはんが食べられますように」から見る若手作家のジェンダー表現について - ほんだなぶろぐ

    欧米圏で仕事をしているとけっこう困るのがメールを送る相手が女性なのか男性なのか意識しなければならないことだ。つまり英文ならMrを付けるか、Msを付けるか。ドイツ語ならHerrをつけるかFrauをつけるか。間違ってしまうと失礼だし、かなり面倒くさい。 加えてドイツ語にはあの初心者泣かせの悪名高い男性名詞、女性名詞、中性名詞なんていうものがある。例えば犬(Hund)は男性名詞だが、(Katze)は女性名詞だ。男性名詞の場合不定冠詞がderになり、女性名詞の場合はdieになり、文章を組み立てる上で非常に面倒くさい。また、医者など多くの職業は男性の場合と女性の場合で呼び方がかわる。(男性はArzt、女性はÄrztin。ちょうどウエイターとウエイトレスのような感じ) 男性が発言しているか、女性が発言しているか、それを区別する必要はあるのか? ビジネスシーンでは特に区別する必要はないだろう。ただし、

    ごはんを作ったのはだれか?「おいしいごはんが食べられますように」から見る若手作家のジェンダー表現について - ほんだなぶろぐ
    jin07nov
    jin07nov 2022/08/28
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  • ごはんと一緒にコンテクストを食べて生きている「おいしいごはんが食べられますように」 - ほんだなぶろぐ

    芥川賞を受賞した作、タイトルだけ見ると、登場人物がなにかおいしいべ物をべるグルメ小説、という印象を受けるかもしれない。はじめはぼくもそう思った。中身を読んでみると半分正解で、半分不正解だった。 確かにこの小説には登場人物がなにかをべるシーンがたくさん出てくる。というか、ほとんどべるシーンだ。だが、一方でこの小説はグルメ小説ではない。グルメ小説なら登場人物はおいしそうにごはんをべるはずだが、作の語り手となる二人のキャラクター押尾と二谷は必ずしも料理おいしそうべない。 某漫画に出てくるキャラが、客はラーメンじゃなく、情報をべている、というセリフを吐くそうだが、言い得て妙な表現だと思う。実際、ラーメンだけでなく、コンビニやスーパーに行っても商品のパッケージには「北海道産」だとか「こだわりの」だとか、あるいは「じっくりコトコト」など、なにかしらの情報で溢れかえっている。 料理

    ごはんと一緒にコンテクストを食べて生きている「おいしいごはんが食べられますように」 - ほんだなぶろぐ
    jin07nov
    jin07nov 2022/08/13
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  • 「ファウスト」の「渇き」はいかにして満たされ、あるいは満たされなかったか - ほんだなぶろぐ

    身も蓋もないまとめ方をするなら、「ファウスト」とは、「悪魔と契約してなんでもできるようになった老人が色気づいて美女を落とす」話だった。そうやってまとめてしまうと「結局のところ男は性欲からは逃れられない」みたいな単純な話に矮小化されてしまいそうだけれど、もちろんここで描かれているのはそう単純な話ではない。(と思う) この作品で表現されているのはファウストという男の飽くなき探究心であり、強烈な「渇き」だ。そして彼を突き動かしている行動原理は、「他者と一体化したい」という欲求であるように感じた。この欲求はおそらく世界中普遍的に存在するものと思うのだが、正確に表す言葉を知らないので「同一化幻想」と呼びたい。 「同一化幻想」は主に恋愛の分野で見られると思う。男性が美しい女性を、女性が経済的に優れた男性を恋愛対象として好ましく感じるのは相手と同一化して自分の価値が上昇するように感じられることが要因の一

    「ファウスト」の「渇き」はいかにして満たされ、あるいは満たされなかったか - ほんだなぶろぐ
    jin07nov
    jin07nov 2022/07/09
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  • おじさんは、遠きにありて思ふもの 「現代日本の開化」【日本人について思うこと】 - ほんだなぶろぐ

    「おじさん」という日語について最近よく考えているのだけど、「おじさん」というのは不思議な言葉で、存外、定義が難しいように思う。「おじさん」は一般的には血縁関係にない中年男性を指すが、誰かに向かって「おじさん」と呼びかけるのは大変失礼にあたるので人を前に「おじさん」と呼ぶ人は多分、あまりいない。「あの人はおじさん」と人がいないときに言われる場合もあるけれど、そういう場合はあんまりいい意味ではないような気がするし、「おれももうおじさんだよ」と人が言う場合、どこか自嘲するようなニュアンスがある。 40〜64歳を中年期と呼ぶが、その年頃になると男性はもれなく全員おじさんになるのだろうか?ぼくは30代後半で、そろそろおじさんと呼ばれる年齢に到達しようとしているが(いや、若い人から見ればもうとっくにおじさんになってるかもしれないが)今も昔もおじさんという言葉から連想されるのは「未来」であるよう

    おじさんは、遠きにありて思ふもの 「現代日本の開化」【日本人について思うこと】 - ほんだなぶろぐ
    jin07nov
    jin07nov 2022/04/27
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  • 「椿姫」は女として生きるより人として死ぬことを選んだ? - ほんだなぶろぐ

    椿姫を読むのはもう何度目かで、だいたいの筋は知っていたので、今回はマルグリットという女性はいったいどういう人物だったのだろうかという視点で読んでみた。 ものすごくかいつまんでこの小説のあらすじを説明するなら、この小説はパリで高級娼婦として暮らしていたマルグリットに恋をした青年、アルマンの話だ。アルマンは裕福な家の出ではあるが、マルグリットを養うにはいささか不十分なほどの金しかない。マルグリットはアルマンの純愛に心を打たれ、パトロン達と別れて彼に献身的に尽くすようになる。 今の感覚からするとマルグリットが聖母のように描かれていてご都合主義だ、と言われるかもしれないけれど、今回読み直してみて全然違う感想を持った。マルグリットは聖母なんかではなく、人として敬意を払われるために死んだのではないだろうか。 椿姫 (光文社古典新訳文庫) 作者:デュマ・フィス 発売日: 2018/03/23 メディア:

    「椿姫」は女として生きるより人として死ぬことを選んだ? - ほんだなぶろぐ
    jin07nov
    jin07nov 2021/02/15
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  • 寄るべない不安「斜陽」 - ほんだなぶろぐ

    太宰治はぼくにとってながらく読まず嫌いの作家だった。 いや、正確に言えば、10年以上前、学生時代に一度は読んでおかないと、と思ってまずは代表作と言われる「人間失格」を手にとって、これはなんという気障な男の話か、と大いに辟易してしまった。主人公大庭葉蔵の直面していた不安や、焦りのようなものはぼくにとってはまったく理解ができず、長いこと太宰治はぼくとは合わない作家の一人なのだと考えていた。 それでどういういきさつだが忘れてしまったが、何年か前にこの「斜陽」というを読んでずいぶんと驚いた。太宰治とはこんなにも人の感情の機微を捉えているのか、と。 二冊のの違いはまずは語り手の性別の違いがある。「人間失格」は太宰治自身を彷彿とさせるような放埒な男性の語りだが、「斜陽」は太宰とは似ても似つかない、というかむしろ太宰の恋人たちの誰かを彷彿とさせるような女性の語りだった。 それでいてこの二冊のの語り

    寄るべない不安「斜陽」 - ほんだなぶろぐ
    jin07nov
    jin07nov 2020/12/29
  • 恋をすることの苦しさ、痛み、そして滑稽さ「ヴェネツィアに死す」 - ほんだなぶろぐ

    映画から入ってしまったからか、やはりどうしても映画と比較しながら読んでしまった。 映画のほうは8割アッシェンバッハ、2割タッジオという感じだったけど、こっちは10割アッシェンバッハだった。もうずっとアッシェンバッハ。 基的なプロットは同じなのに、映画と原作の持つテーマや表現しようとしていることはまったく違うように感じる。 「ベニスに死す」のレビューで書いたが、あの映画は作為的な美を追求してきたアッシェンバッハが無作為の美に触れ、凝り固まった自分の檻から開放される話だと解釈したが、この小説が表現しようとしているのは映画よりももっと根源的な恋、それも身を焦がし、破滅に導かれるほどの恋だ。誤解を恐れずに言うなら、原作の世界にはアッシェンバッハ以外の人間は登場しない。「ヴェネツィアに死す」は他者の存在しない世界を描いている。 タッジオへの憧憬、ヴェネツィアの情景、そして自身の死すらも、すべてはア

    恋をすることの苦しさ、痛み、そして滑稽さ「ヴェネツィアに死す」 - ほんだなぶろぐ
    jin07nov
    jin07nov 2020/11/01
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  • 「ベニスに死す」は美少年ではなくおじさんを愛でる映画? - ほんだなぶろぐ

    タージオ役のビョルン・アンドレセンの美しさをフィーチャーした作品かと思いきや、タージオが出てくるのは(あくまで体感で)全体の2割程度。じゃぁ残りの8割は何を映しているのか、といえば、主人公のおじさん(アッシェンバッハ(ダーク・ボガード))の顔である。そう、この映画は美少年を目当てに見にきた視聴者に対して終始おじさんがやきもきしている姿をたっぷり2時間見せつける変わった映画なのである。 はじめのうちは知らないおじさんの顔なんか見たってちっとも楽しくない。実際彼はわざわざドイツのミュンヘンからイタリアのヴェネツィアまで来てずーっと苦虫を噛み潰したような顔をしている。ヴェネツィアと言えばイタリア屈指の観光地で、そんなところに遊びに来たならふつうは大はしゃぎのはずだ。しかし、バカンスに来たわりに彼は陰気で浮かない顔をしている。 実に30分近くおじさんが船頭にボラれそうになったりヴェネツィアの暑さに

    「ベニスに死す」は美少年ではなくおじさんを愛でる映画? - ほんだなぶろぐ
    jin07nov
    jin07nov 2020/10/17
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  • 信頼できない語り手が作り出す三つの世界「日の名残り」 - ほんだなぶろぐ

    カズオイシグロの大ファンで、著作はほぼ全て読んでいるのだが、その中でもひときわ秀逸だと思うのはやはり「日の名残り」だ。 品格の問題、叶わなかった恋の問題、イギリスの旅情、とにかくいろいろな側面で話す内容の多い作品ではあるが、今回はこの小説で用いられている技巧について話したい。 以前にもこのでエントリーは書いているけれど、再読した印象の備忘録として残そうと思う。 カズオイシグロの使う小説上の技巧といえば、「信頼できない語り手」のテクニックが欠かせない。「信頼できない語り手」の特徴とは、読んで字の如く時折語り手であるスティーブンスが「事実ではないこと」をほのめかす、というところにある。読み手はそれによって混乱し、ひっかかりを覚える。なぜ、スティーブンスは事実ではないことをほのめかし、我々を混乱させるのか?そしてそれがこの物語を動かす上での大きな推進力になっている。 日の名残り (ハヤカワep

    信頼できない語り手が作り出す三つの世界「日の名残り」 - ほんだなぶろぐ
    jin07nov
    jin07nov 2020/07/16
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  • 自由の正体 「1984年」 - ほんだなぶろぐ

    全体的に重苦しくて救いがないし、ところどころで偏執的とも言える思想の垂れ流しのような文章が羅列されていて実によみづらく、眠気を催してくるものの、この小説のことは昔からずっと好きだった。今回も読みすすめるのはけっこうな苦行ではあったが、「今」この小説を読むことは価値のあることだと感じた。 それは、コロナ禍で今、とくに日で起きていること、そして、コロナ以前から日で蔓延している事象がこの作品と分かちがたく結びついているのではないかと思うからだ。ある意味でずっとぼく自身が感じてきた日での生き辛さがこの話に凝縮されていた。 一九八四年 (ハヤカワepi文庫) 作者:ジョージ・オーウェル,高橋 和久 発売日: 2012/08/01 メディア: Kindle版 こので描かれる世界が漠然とディストピアであるというのは直感的に理解できるのではないかと思う。強力な一党独裁体制が敷かれ、国民は常にテレス

    自由の正体 「1984年」 - ほんだなぶろぐ
    jin07nov
    jin07nov 2020/07/05
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  • 不条理を受け入れる 「ペスト」 - ほんだなぶろぐ

    新型コロナウイルスの影響で話題になっている「ペスト」。このは日だけでなく、ロンドンレビューオブブックスでも取り上げられており、イギリスでも話題になっているようだ。 (ロンドンレビューオブブックス) https://www.lrb.co.uk/the-paper/v42/n09/jacqueline-rose/pointing-the-finger ペストは新型コロナウイルスと同じ、人と他の生物の両方が罹患するウイルス(人獣共通感染症)であり、ペストが蔓延したアルジェリアの「オラン」はこの小説の中で都市封鎖(ロックダウン)される。人の出入りは制限され、人々は今住んでいる都市から出入りすることができない。これは我々が今まさに世界中で直面している状況と非常に似通っている。 ただ、その一方で「ペスト」の冒頭にはダニエル・デフォーによる謎めいた一節がある。 「ある種の監禁状態を他のある種のそれに

    不条理を受け入れる 「ペスト」 - ほんだなぶろぐ
    jin07nov
    jin07nov 2020/06/04
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  • 制約がドラマを生む「門外不出モラトリアム」 - ほんだなぶろぐ

    普段演劇というものに縁のない生活を送っているので、ぼくが演劇を語るなんておこがましいのだが、演劇というのはとかく不自由が多い。 まず舞台。小説映画漫画だったら舞台は自由自在だが、演劇はそうもいかない。 それに、時間の流れ。これも、ほかのフィクションなら自由自在だ。勝手に一秒を引き伸ばしたり、十年を一瞬で飛ばしたりすることも可能だ。 続けて、カット。今、どこに注目するべきか、演劇の場合アテンションを観客に向けさせるのが難しい。カメラはズームか?パンか?なんて選べない。 ヒロインの持っているナイフに注目してほしい時はどうすればいい?スポットライトを当てるか?それとも周りにリアクションしてもらうか? ただ、その「不自由さ」が逆にドラマを生むこともある。 特に今は新型コロナの蔓延によって世界全体が「不自由さ」の中にある。そんな中で、オンラインでオーディションし、稽古し、公演まで行う、いわば「フ

    制約がドラマを生む「門外不出モラトリアム」 - ほんだなぶろぐ
    jin07nov
    jin07nov 2020/05/24
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  • もう一つの軸を持つということ ぼくはイエローでホワイトでちょっとブルー - ほんだなぶろぐ

    著者のブレイディみかこさんは日人女性で、アイルランド人の男性と結婚し、二人の間には中学生の息子がいる。彼女らは英国の都市、ブライトンに三人暮らしだ。ときたまネットで見かける彼女の記事はどれも目のつけどころが鋭く、自身の考えをわかりやすく説明しているのでしっかりと腹に落ちてくる。だからこそ彼女が中学生の息子をイギリスでどう育て、その過程でぶつかった問題に対してどう感じ、どう対処したのかが気になってこのを手に取った。 ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー 作者:ブレイディ みかこ 発売日: 2019/06/21 メディア: 単行 タイトルから類推できるように、アイルランド人と日人の親を持つ中学生の「息子」は、イエロー(黄色人種)でホワイト(白色人種)だ。中学生といえば、自分のアイデンティティについて悩み始める年頃である。英国の元底辺校に進学した彼は、人種差別の問題にぶち当たる。

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    jin07nov
    jin07nov 2020/05/15
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  • 我々は何から疎外されているのか  カフカ「変身」 - ほんだなぶろぐ

    コロナ禍の影響でにわかにカミュの「ペスト」が注目を集めているらしい。 不条理が集団を襲った作品ということで「ペスト」は有名だが、カフカの「変身」は、不条理が個人を襲った作品として有名だ。 主人公、グレゴール・ザムザが気がかりな夢から目を覚ますと、自分が毒虫になっているのを発見する、というなんとも奇妙な出だしで、さらに言えばその後の展開も暗いのだが、個人的にはすごく好きな作品だ。なので、このエントリーで「変身」の魅力が伝われば、と思う。 変身(新潮文庫) 作者:フランツ・カフカ 発売日: 2014/10/31 メディア: Kindle版 100分de名著の中で、この小説は「孤独」がテーマだと紹介していたが、ぼくはこの小説のテーマは「疎外」ではないかと思っている。「孤独」と「疎外」はよく似ているが、少し違う。「孤独」が他者との関係を含まないものに対して、「疎外」は他者から仲間外れにされるニュア

    我々は何から疎外されているのか  カフカ「変身」 - ほんだなぶろぐ
    jin07nov
    jin07nov 2020/04/24
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  • 矛盾してるけどずっと愛するだろう マリッジストーリー - ほんだなぶろぐ

    あのスターウォーズのアダム・ドライバーが主演か、ふーん。という程度の期待値の低い状態で見たのだけど、個人的にすごく心を打つものがあったのでレビューしたいと思う。 のっけからネタバレしているので未視聴の方はご注意願いたい。 『マリッジ・ストーリー』予告編 - Netflix 「マリッジストーリー」というタイトルと、冒頭の主人公カップルの語りは幸せな結婚生活を連想させる。チャーリーはであるニコールの好きなところを語り、ニコールは夫であるチャーリーの好きなところを語る。これから我々はチャーリーとニコールの幸せな結婚生活を見ることになるのだろう。映画を見始めるとそういう期待を持つことになる。そして、その期待は見事に裏切られる。 なぜなら物語開始の時点で、すでに二人の結婚生活は抜き差しならない事態に追いやられているからだ。というよりも結婚生活という観点でみると、すでに離婚という終焉を迎えており、物

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  • 本音を言わない人たち「高慢と偏見」 - ほんだなぶろぐ

    再読して改めて感じたが、この小説の魅力は極めて繊細で、驚く程難解だ。なにしろ、登場人物たちはストレートに自分の感情を表現しない。 村上春樹が小説の創作について、「優れたパーカッショニストは一番重要な音を叩かない」と表現したが、その表現は言い得て妙だ。伝えるべき一番重要なことを彼らは相手に伝えていない。 しかし、よく考えてみると、現実の我々の世界でもまた重要なことを話すとき、しばしば彼らのようにふるまっている。話題が重要なことであれば、我々は他人からよく見られようとし、保身に走る。その結果事実ではないことを述べたり、言いにくいことをはぐらかしたりする。しかもそれを無意識のうちにやってのけ、意識していなかったと嘘をつく。 ぼくはオースティンの文学の卓越性は「恥」の感覚とその表現にあると考えている。登場人物が婉曲表現を使うのは何かに対して恐れを感じ、恥ずかしい思いをすることを回避しようとしている

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    jin07nov
    jin07nov 2020/02/03
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  • そこに必然の恋はあるか? 「国境の南、太陽の西」 - ほんだなぶろぐ

    「僕たちの恋は必然的なものだ。だが、偶然の恋も知る必要がある」 哲学者 ジャン=ポール・サルトル フランスの哲学者サルトルが内縁のである、同じくフランスの哲学者ボーヴォワールに話したと言われているのがこの台詞だ。これを読んでなんたる浮ついた気障男か、あるいはなんと自分に都合のいいことを言う男か、と憤慨される人も多かろうと思う。しかしそういう感情はいったん脇に置いておいて(置いておくことは無理だという人も多いでしょうが)考察していきたい。二人の間に何があればサルトルの言うところの「偶然の恋」でなく「必然の恋」だと言えるのだろうか? ぼくは普段それほど恋愛小説は読まないし、恋愛映画恋愛をメインにしたドラマも見ない。ぼくは村上春樹の小説が好きで、全て読んでいるのだけど、彼の小説の中で何が一番好きか、と問われると、この「国境の南、太陽の西」を挙げる。巷にあふれている恋愛小説は、重要な点が欠落し

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    jin07nov
    jin07nov 2019/12/30
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  • 許されないすべての人間への赦し「失くした体」 - ほんだなぶろぐ

    はっきり言ってこの映画の後味は悪い。一般受けとは程遠い映画だ。80分間通して、画面はゴミだめ、通気口、地下鉄の線路などを写すために暗く、ラストにも救いがない。見終わったあと、これはいったいなんだったのか、とガッカリする。期待していたようなエンディングでないために、もしかしたら怒る人もいるかもしれない。魔法のような世界でありながら、奇跡のような展開は起きない。だが、じわじわと余韻が残る。あれはいったいなんだったのか?見終わってから数日、映し出された物語の意味を考えさせられる羽目になる。この余韻はいったいなんなのか?「失くした体」とはどういう意味をもつ映画なのか? 右手を事故で失くした青年、ナウフェル。物語は医療施設に保管されていた彼の切断された右手と、右手の主であるナウフェルを主人公として語られる。右手は施設を抜け出し、夜のパリを駆け抜ける。『失くした体』ナウフェルの右腕と再び結ばれることを

    許されないすべての人間への赦し「失くした体」 - ほんだなぶろぐ
    jin07nov
    jin07nov 2019/12/24
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  • 文学の時代性、地域性について「うたかたの日々」 - ほんだなぶろぐ

    昔、優れた文学というものは、時代や地域に関係なくあらゆる時代のあらゆる地域の人間にとって心に響くものだとおもっていたが、最近はその考え方が狭量に過ぎたと思う。ある時代、ある地域に生まれた人間が書いた小説は好むと好まざるとによらずその時代と地域の影響を受けているからだ。しかし、こう思われるかもしれない。政治的な主張や、イデオロギーの発露がなさそうに見える、この「うたかたの日々」のような小説でもそれが言えるのか?と。 はじめ「うたかたの日々」という小説をどう読んだらいいか分からず、序盤で思わずWikipediaの力を頼ってしまったのだが、その後はこの小説の持つ独特の世界にすんなりと共感できたように思う。 「うたかたの日々」は1947年に書かれ、パリを舞台にしている。1947年といえば、ぱっと思いつくのは第二次世界大戦の戦後すぐの頃であり、その当時のパリというのはナチスドイツの占領から回復(19

    文学の時代性、地域性について「うたかたの日々」 - ほんだなぶろぐ
    jin07nov
    jin07nov 2019/12/18
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