弁護団にとって、Winnyの技術的立証をどうするかは、ずっと懸案の問題であった。 なんとか人づてに紹介してもらえたのが、慶應大学の村井純教授であった。 当然、事前に打ち合わせをしたのであるが、 村井教授は予想を遙かに上回る漢であった。 「その理屈だったら、日本にインターネット引いてきた俺が幇助じゃん」 「KazaaっていうボロWinnyですらSkypeを生んだんだ。Winnyが何を生み出すかを見たかったんだ。俺は」 村井節に力づけられた弁護側の証人申請に対して、検察は反対してきた。彼は、技術者の代表ではないということらしい。 こいつら、日本にインターネット引いてきた人に何を言ってるんだ? 反対のための反対に徹する検察の意見に呆れた弁護団は、村井教授の著書「インターネット」「インターネット2」を疎明資料として裁判所に提出して、その必要性を論じ、その結果、なんとか証人尋問の期日が決まった。めで
江戸末期・明治初期の日本の姿がカラーで――。明治初期の写真家・着色技師・日下部金兵衛(くさかべ きんべえ)の作品が、ニューヨーク公共図書館のアーカイブに収められている。カラーでよみがえる、日本の風景が新鮮だ。 日下部金兵衛は、日本に移住していたイギリスの写真家フェリーチェ・ベアト(1832-1909)が開いた横浜の写真館で、写真に色をつける「着色技師」として働き、ベアトの弟子となります。そのことを契機に、1881年(明治13年)頃に自らも写真館を開き、写真家として独立します。顧客の多くが西洋人であったため、仕事上は西洋人が発音し易いKimbei (キンベイ) という呼び名を用いていました。 (東京富士美術館「明治の着色写真 Kimbei Kusakabe」より)
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