2010年8月26日のブックマーク (6件)

  • 47NEWS(よんななニュース)

    79年目の長崎原爆の日。爆心地・浦上は江戸時代、異教徒が共生していた村だった。その子孫が敵対と分断が進む世界や、イスラエルに関して思うこととは…

    47NEWS(よんななニュース)
  • 日航が格安航空会社の設立検討、更生案に(読売新聞) - Yahoo!ニュース

    会社更生手続き中の日航空と管財人の企業再生支援機構が、格安航空会社(LCC)の設立に向けて検討に入ることが25日、明らかになった。 31日に裁判所に提出する更生計画案に新たに盛り込む。LCCはサービスを簡素化するなどして運賃を抑える新しい航空会社の形態で、世界の航空市場で急成長している。ライバルの全日空輸も今年6月、LCCの設立検討を表明しており、対抗する考えとみられる。 日航は更生計画案の中で、羽田空港や成田空港の発着枠が増えることでLCCの参入が格化し、低価格競争が激しくなる可能性が高いと指摘。これに対応するため、安全性や運航時間の正確さなどを確保しながら価格を下げる「日型LCC」の設立を検討するとしている。設立する際は、JALとは別ブランドとする案が有力で、設立時期や路線などは今後、検討する。

  • 最速新幹線「みずほ」、停車駅の選定に苦慮 JR九州社長が吐露(産経新聞) - Yahoo!ニュース

    平成23年春の運転開始に向けて試験走行が行われる山陽・九州新幹線直通用車両。車体は薄いブルー=6月15日午後、姫路駅(竹川禎一郎撮影)(写真:産経新聞) 来春全線開業する九州新幹線鹿児島ルートで、JR九州・西日両社が検討中の、新大阪−鹿児島中央を3時間47分で結ぶ最速新幹線「みずほ」導入について、JR九州の唐池恒二社長は25日の定例会見で、「新幹線の使命として、1分でも2分でも短縮できるよう勉強しているところだ」とした上で、停車駅の選定に苦慮していることを吐露した。 ■地図でチェック■大阪−鹿児島の最速新幹線「みずほ」で検討されている停車駅は? 唐池社長は、沿線自治体から地元駅への停車を求める要望が相次いでいることについて、「停車駅を増やせばそれだけ遅くなる」と語った。 「みずほ」の名称と来年3月12日を軸に調整が進む開業スケジュールについては「最終決定ではない。早ければ9月下旬か

  • 北朝鮮、ホラー医療の証言

    「わが人民にかかる医療は無料」。それが長年にわたる北朝鮮の国是だ。だが、このほど国際人権団体アムネスティ・インターナショナルが脱北者を対象に行った聞き取り調査(7月15日に公表)から、この国の医療の恐ろしい実態が浮かび上がった。 調査に応じたのは、40人余りの脱北者。証言によると、病院には電気も暖房もなく、診療はろうそくの明かりを頼りに行われている。最低限の医薬品も常備されておらず、切断手術が麻酔なしで行われることもある。 咸鏡北道出身の24歳の男性フアンは、00年に走行中の列車から転落し、くるぶしの骨がつぶれた。医師はふくらはぎから下を切断する必要があると判断し、手術を行った。 「看護師5人に手足を押さえ付けられた」と、彼はアムネスティに語っている。「あまりの激痛に悲鳴を上げ、気を失った。病院のベッドで意識が戻ったのは1週間後だった」 フアンは、麻酔なしで手術を受けた患者をほかにも知って

    jummai
    jummai 2010/08/26
  • チリ鉱山生存者を待つ過酷な4カ月

    鉱山事故で奇跡の生存劇。だが外に出るためには、厳しい生存環境で困難な作業を何カ月もこなさなければならない 8月23日、坑内に閉じ込められた作業員たちと初めて音声通話が可能になると、ローレンス・ゴルボルネ鉱山相には直ちに彼らの望みのものが伝えられた。料、歯ブラシ、それにビールだ。 作業員たちの欲求はこれだけではなかった。国家斉唱だ。33人の男たちのコーラスは地下688メートルの奥深くから地上に届けられた。 8月5日、チリの首都サンティアゴから約800キロ北のアタカマ砂漠にあるサンホセ鉱山で落盤事故が起き、作業員33人が地下に閉じ込められた。救助活動が初めて実を結んだのは、17日後の8月22日。生存はほぼ絶望視されていたが、なんと全員が生きていた。 祝福ムードが広がったが、当の試練はこれからだ。新たなトンネルを掘り進めて作業員全員を救助するには、クリスマスごろまでかかる可能性もある。 その

  • 歴史を逆行する「親捨て」日本人

    今週のコラムニスト:李小牧 1988年に日にやって来た李小牧が真っ先に買った「上等貨(高級品)」をご存知だろうか。日語学校の学費と生活費をひねり出すため、ラブホテルの掃除や日料理店の皿洗い、オカマバーのショーダンサーといったバイトに明け暮れていた私がまず買ったのは中国の電話加入権。値段は当時の日円で20万円。それだけのカネがあれば中国ではマンションが1室買えた。 電話を置いたのは中国に残した愛人のところではなく(笑)、故郷・湖南省で存命していた父親の家。今ならパソコンで瞬時にメールも送れるが、その頃の連絡手段はやはり手紙。投函しても中国に着くまで半月かかる。大金をはたいたのは、「どうしても父親に元気な自分の声を聞かせたい!」という親孝行の一心からだった。 ちなみに現在3回目の結婚中の中国人のと私の2回目の離婚原因(笑)は、彼女が難病にかかった南京の母親を自分で看病したい、と言い出

    歴史を逆行する「親捨て」日本人