プロパガンダとしても創作の作劇手法としても「悲惨な死に様」を描写するのは、簡単に人の心を動かす事が出来るテクニックなんだから。 「こんな風に死んでしまいます」と扇情的に書かれたblog記事を鵜呑みにするのは「私はお気の毒な人ですよ。頭脳の判断力が」と首から札下げて街を歩いているようなもんなので、天然でやっているとしたら考え直した方が良いと思う。 もしそんな記事を見かけたら、「その悲惨な死を回避したせいで、他の悲惨な死が起こる事に成らないか?」とカウンターで考えてみるのをオススメしたい。 例えば「死刑執行はこんな風に実行されますよ(だから死刑制度反対)」という記事をみたら「その死刑囚が逮捕前に起こした犯行では、犠牲者はどんな死に方をしたんだ?」とか。(ということは、別に死刑制度には反対していないが、単に死刑執行のグロさをトリビアとして伝えたいだけの記事は別に素直に読めば良いという事。ただ「善
p_shirokumaさんのエントリ周辺を読んで。 たとえば「お金がない人ってどうなんですか? 結局お金が欲しいんですよね?」って言われたらどうだろう。お金欲しいかって言われたらそりゃ欲しいわー、とぼくも思う。しかしここで「じゃあお金を得るために努力するか諦めるかすればいいんじゃないの?」と迫られたら、どうなのか。いやいやいやなんでそんな急な話になるわけよ……って思う、のではないか。と考えると、別にぼくはいますぐ努力するほどにはお金は欲しいと思ってはいないんだなー、と気づくことができる。 というふうに、現にモテようと頑張ってる人以外は、モテたいと思ってないんじゃないかなぁ、って気がします。現状に満足しているから動かないわけで。そういう「別に自分はモテたいとは思ってはいない事への気づき」が解決につながる人もいるんじゃないかなー。 そういう人たちに対しては、p_shirokumaさんのアプロー
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