だってよ、思い返してみるとさ、 津波の前は、海は痩せてしまってたしよ、 獲れたら獲れたで 価格が暴落して「大漁貧乏」になるしで 漁師はみーんな、 きゅきゅうとしてたんだもの。
だってよ、思い返してみるとさ、 津波の前は、海は痩せてしまってたしよ、 獲れたら獲れたで 価格が暴落して「大漁貧乏」になるしで 漁師はみーんな、 きゅきゅうとしてたんだもの。
この9月(2011年9月)に 被災地の応急仮設住宅の約95パーセントが 完成あるいは着工されたのを機に、 調査を開始しました。 それに先立つ8月には 岩手県釜石市、宮城県仙台市と登米市に 調査拠点を新設しています。
まず、ぼくが今やっている、 あるいは、これまでやってきた仕事に関しては とても大きなヒントを、 クリストさんの芸術活動から得ているんです。
いえ、ぼくが初めて被災地に入ったのは、 3月31日なんです。 「明日、ガソリンが実家に入るぞ」って 聞いたときなんですけど、 つまり、動きはじめも、そこからで。
まず、ぼくが今やっている、 あるいは、これまでやってきた仕事に関しては とても大きなヒントを、 クリストさんの芸術活動から得ているんです。
まさかの設計依頼のメールを受けて10日後、 僕は新幹線でふたたび神戸に向かいました。 内田さんに奥様を紹介していただきご挨拶。 車で5分という近所にある 新しい土地をさっそく案内してもらいます。 駅から歩いてすぐの南北に長い 約85坪の綺麗な区画。 1995年の阪神大震災のあとに整備された、 平らなまったくの更地(さらち)です。 南側に8メートル幅の道路があり、 他の3面には住宅が建っています。 前面の道路に立って北を向くと、 遠く六甲山を望むことができます。 四季の移り変わりを伝える山に しっかりと守られているようで、 なんだか心がほっとしました。 南には海人の神社である本住吉神社があり、 その延長上には瀬戸内海が広がっています。 南北に山と海がある肌触りの良い土地です。 ちょっぴり冷たい2月の風に吹かれながら、 まだ見ぬ建築を想像して わくわくする敷地との初対面でした。 土地との対話の
ほぼにちわ、「ほぼ日」の菅野です。 ゴールデンウィークのあいだ、 糸井重里+数人の乗組員は 国立民族学博物館で開催されている 「ウメサオタダオ展」に行ってまいりました。 この訪問の機会をくださった 雑誌「考える人」の 新潮社編集部のみなさんもいっしょです。 国立民族学博物館は、大阪は吹田の 岡本太郎さんの「太陽の塔」のそばにあります。 (「裏手」みたいな位置関係です) 梅棹忠夫さんは、この 国立民族学博物館の初代館長さんでした。 梅棹さんは、フィールドワークを軸においた 生態学、民族学、比較文明学の偉大な先駆者として 知られる人ですが、 我々「ほぼ日」の乗組員にとっては、 著書『情報の文明学』で とても親しみのある方です。 この『情報の文明学』は、糸井と我々が 『「ほぼ日」の父』と(勝手に)呼んでいる いわば、「ほぼ日」乗組員の課題図書なのです。 新しく入ったスタッフに、この『情報の文明学
・「自分の目のなかに丸太があるのに、 他の人たちの目の中のおが屑ばかりを見る」 というのは聖書のなかにあることばですが、 あっちでもこっちでも、思い当たるようなことですよね。 あいつも、あいつもそうだよなぁと思いあたるし、 そしてさらに、じぶんにもそういうところがある。 じぶんの悪いところは棚上げして、他人を責める。 このことについて、かつて吉本隆明さんはこう言いました。 「自分もそうなんですよ。 自分もそうだってことは誰でもそうだってこと、 誰でもそうだってことは、人間は誰でもおなじだよ、 という意味ではなくて、 人間性というものの中に根ざしているものは、 誰もおんなじものがあるのですよ、ということなんです」 ややまわりくどい言い方かもしれないけれど、 いまあらためて、ぼく流にまとめれば、 「人間というものの性質が、そういうものなんだよ」 ということになります。 そして、その「人間という
そう。 ぼくらが見ている「形」のなかで、 見逃しちゃってるものがあるでしょう。 同じストライクでも、 ボールひとつ右に内角に寄っている、 みたいなことを、葛西さんは ぼくらと同じ暮らしをしながら、 ちゃんと、見てんだな、と。 ぼくは、今日は改めて 喜びとともに感じたのは、 葛西さんが見てるものの分量が 自分よりずっと多いんだ、 ということのうれしさでした。 葛西さんはフィギュアコンシャスに生きてて、 ちょっとした形の違いみたいなものに いいな、悪いな、どうすればいいんだろう、 みたいなことを、 きっとぼくら以上に見てるんだろうなって。
そう。 ぼくらが見ている「形」のなかで、 見逃しちゃってるものがあるでしょう。 同じストライクでも、 ボールひとつ右に内角に寄っている、 みたいなことを、葛西さんは ぼくらと同じ暮らしをしながら、 ちゃんと、見てんだな、と。 ぼくは、今日は改めて 喜びとともに感じたのは、 葛西さんが見てるものの分量が 自分よりずっと多いんだ、 ということのうれしさでした。 葛西さんはフィギュアコンシャスに生きてて、 ちょっとした形の違いみたいなものに いいな、悪いな、どうすればいいんだろう、 みたいなことを、 きっとぼくら以上に見てるんだろうなって。
糸井重里がほぼ日の創刊時から 2011年まで連載していた、 ちょっと長めのコラムです。 「今日のダーリン」とは別に 毎週月曜日に掲載されていました。 ばかにしないということ。 2009-03-09 3月6日の『今日のダーリン』に、 「人をばかにしちゃいけない」ということについて書いた。 それまで、ずっと考えていたことが、 あ、こういうふうになら書けるかもしれないと思って、 とにかく書いてみた。 『今日のダーリン』は、その日かぎりの掲載で、 アーカイブを残さないことにしているのだけれど、 まず、ここに貼り付けておく。 ・「人をばかにしちゃいけない」というのは、 よく言われることで、これはもう、 まったくもってその通りなのです。 人をばかにしていいか悪いか、という 倫理の問題だけではなく、 人をばかにしてトクかソンかという 損得の問題だけでもなく、 人をばかにして気持ちがいいかどうか、という
自分でも思いがけないところで 自分の力が発揮できることを おもしろがるという感じなので、 簡単に挙げづらいんですが‥‥。 まぁ、でも、やっぱりチームプレイでしょうね。 いまやってないわけじゃありませんけど、 もっと、チームでしかできないことを。 チームでなにができるかという可能性と、 自分がなにができるかという可能性は、 ぜんぜん違うものなので、 チームができることを オレがジャマしないようにしたい という気持ちはありますね。 奇しくも、さっき梅田さんがおっしゃった、 「社員を雇わないことにしました」というのと 真逆の方向になりますけど。
そうですね。 糸井さんと梅田さんが 会ったことがないというので、 一度会っておいたほうがいいんじゃないですかと。 まぁ、それだけのことなんですよね。
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