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歴史に関するk-sideのブックマーク (2)

  • 呉に行ってきたった:1日目

    執筆日時: 2015年8月21日13時28分 お盆は船で呉に行ってきました。愛媛・松山とは、海を挟んでお隣の街。スーパージェットで1時間、フェリーで2時間かからないぐらいの距離です。 呉は、人口22万の造船と海軍の街。かつては伊予水軍(村上水軍)の一派が根城にしていたそうで、なるほど、江田島・倉橋島に囲まれた潰れ気味の三角形の内海は、船を休ませておくには適している気がします。 それにしても、呉って面白い名前ですね。名前の由来はいくつかあるそうで…… 呉一帯をつつむ連峰を「九嶺(きゅうれい)」と呼び、それがなまって「くれ」になった。なお、市章はこれにあやかり、カタカナの「レ」9つで星形をかたどったものである。 灰ヶ峰から伐採したくれ(榑、板材の意)が特産品として有名になったことに由来する。 中国三国時代の呉(孫権が建国)の子孫に由来し、戦乱などを逃れて呉から日列島に亡命して呉周辺に住んでい

    呉に行ってきたった:1日目
  • 尖閣、400年前は支配外…明王朝公式日誌に : 社会 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

    中国の明王朝の公式日誌「皇明実録(こうみんじつろく)」の中に、明の地方長官が日の使者との間で、明の支配する海域が尖閣諸島(沖縄県)より中国側にある台湾の馬祖(ばそ)列島までと明言し、その外側の海は自由に航行できるとした記述を、長崎純心大の石井望准教授(漢文学)が見つけ、21日午前に長崎市内で記者会見して明らかにした。 中国は現在、尖閣諸島を約600年前の明の時代から支配してきたと主張しているが、石井氏は記者会見で、「歴史的に見ても、尖閣を巡る論争は日側の主張が正しいということが、この史料からわかる」と語った。 石井氏が見つけたのは、江戸時代初期にあたる1617年8月の皇明実録の記述。沿岸を守る長官だった「海道副使(かいどうふくし)」(海防監察長官)が、長崎からの使者・明石道友(あかしどうゆう)を逮捕・尋問した際の記録で、皇帝への上奏文として納められていた。 それによると、この海道副使は

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