2008年05月10日00:15 カテゴリLove 紙一重 不幸かどうかはとにかく、あまりに起点が似ていて、あまりにその後が異なるので。 天才コンプレックス - shi3zの日記 なぜ僕がこんなに天才について興味があるかといえば、なんというか、まあ不幸な育ちに原因があると思う。 ここまでは、ほぼ一緒。 その言葉とともに、僕は知能指数に関してのレポートを貰った。そこには200に少し届かない数字が書かれていた。 しかし、こうはならなかった。 塾の学費が全額免除され、親は僕が興味を持ったものはなんでも買ってくれるようになった。最たるものは、パソコンだ。ファミコンすら買ってくれなかった父が、急に当時最新鋭のパソコンを買い与えてくれたのである。僕は事実上それを独占できた。僕にとってはかなりの幸福だ。 代わりに私の身に起きたのは、こういうことだった。 その31: 元オン・ザ・エッヂ(現ライブドア)最高
自分は天才だと思っている人がけっこういる。こっそり思っている人もいる。 言うだけ馬鹿みたいだし、誤解されるだけなんだけど、戯れに言うと、私は多少天才である。多少というのは、天才というのは、自己の内部の他者ということで、自己が自己であろうとすることに介在してくる強烈なものだ。英語のgiftedみたいなもの。とりあえず、だから、天才性とでもいうか。 それは、自己にとって外来的な性質をもっている。 棚からぼた餅というか、降ってくる。あるメロディが、ある色彩が、ある構図が、ある着想が……。ただ、自己へぼたんと牛糞のように振ってくる。 それに自己が従属してしかも社会にある影響力を持つ人が、いわゆる天才だし、およそ天才というのは、美人と同じで社会側からのある特異な評価そのものである。な・の・で、私は天才だというのはほとんど狂人に近い。あるいは馬鹿だ。私は狂人ではないので、私は天才だとは言わない。でも私
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