「番犬屋マル あなたのたいせつなもの おまもりします。」 きたやまようこ 【メディアファクトリー】
どうも「CDが高いのはJASRACがぼったくってるせいだ」と思っている人がいるようだ。痛いニュースなんかを見ていると、とりあえずすべての原因はJASRACだ、みたいな人が多いなぁと。私もJASRACは問題の多い組織だという印象を持っているけれど、かといってやることなすことすべてがおかしい、何か問題がある、という絶対的な悪の組織というわけでもないだろう。 ということで、CD1枚売れたときのJASRACのいわゆる「搾取」っぷりを考えてみるよ。 CD1枚につき… JASRACはCD(オーディオ録音)における音楽著作権料として6%の音楽著作権使用料を設定して徴収している。CDが1枚3,000円だとしたら、 3,000円 * 0.06 = 180円 これが音楽著作権使用料として徴収される。JASRACはここから6%を著作権管理料として差し引く*1。 180円 * 0.06 = 10.8円 ということ
なんか公取がJASRACに立ち入り調査に入ったらしい。ソースはどっかのHPチラ見。いま家のパソコン使えなくて投稿も閲覧も携帯電話のみなんで情状酌量お願いします。 そして、どうせ「ざまみろ!カスラック!」と騒いでいる人が大量にいるんでしょ?見てないから知らないけどさ。ぼく携帯ライフだし。知りたくないものまで知る必要はないし。(引用LR曲名忘れた。確か…僕は電話をかけない?) ということで詳細分からないけど、公取がJASRACを監視リストに入れて警告していたのは前々からのこと。 しかし包括許諾契約がNGというのは、どこを指しているんだろ?つかこれが確定すれば大変だよな。 包括許諾自体は手続きを(どんぶり勘定化と引き換えに)簡素化するためのツールだ。もちろんライバルのイーライセンスも包括許諾契約を結んでいる。 いまや全曲報告義務は両社ともにあるため、(但しJASRACは猶予中。あとテレビ以外の契
幻冬舎「GOETHE」の創刊号にこうあった。 無趣味のすすめ ―村上龍 まわりを見ると、趣味が花盛りだ。手芸、山歩き、ガーデニング、パソコン、料理、スポーツ、ペットの飼育や訓練など、ありとあらゆる趣味の情報が愛好者向けに、また初心者向けに紹介される。 趣味が悪いわけではない。だが基本的に趣味は老人のものだ。好きで好きでたまらない何かに没頭する子どもや若者は、いずれ自然にプロを目指すだろう。 老人はいい意味でも悪い意味でも既得権益を持っている。獲得してきた知識や技術、それに資産や人的ネットワークなどで、彼らは自然にそれを守ろうとする。 だから自分の世界を意図的に、また無謀に拡大して不慣れな環境や他者と遭遇することを避ける傾向がある。 わたしは趣味を持っていない。小説はもちろん、映画製作も、キューバ音楽のプロデュースも、メールマガジンの編集発行も、金銭のやりとりや契約や批判が発生する「仕事」だ
はてなダイアリーユーザーってなんでコメント欄使わないの?を読んで。 私の意見を書く。id:lastlineの「感想は自分のフィールドに書きたいからコメントしないんじゃないかな」という考え方にも私は同意しない。 私のコメントのスタンスは、伝えたい人に伝われば良い。それだけである。 だから、はてなダイアリーにははてブすればコメントを読んでくれると思っているし、はてなユーザーでないブログにはコメント欄にコメントをしている。届けたいコメントを、届けたい人に届けるためならば、手段は何だって良い。 しかし、この問題はここで収束するものではない。 はてなブックマークのコメントは必ずしも、記事の書き手にだけ向けているものではないからだ。 コメントを書く際は3つの視点が重要になる。 1.記事の書き手へのコメント 2.自分を認識している人へのコメント 3.通りすがった誰かへのコメント そもそも書き手だけに言葉
大学院のゼミ、今季は「日本辺境論」である。 日本の地政学的辺境性あるいは文明論的辺境性という補助線を引くことによって、日本の「ありよう」を再解釈しようという野心的な企てである。 第一回目の発表はイハラさんの「外来語」。 これはなかなかすぐれた着眼点である。 というのは、日本語は外来語に対して、世界の諸国語の中でも例外的に開放的な言語だからである。 原日本語(大野晋先生によれば、もとはタミル語だそうであるが)に漢字が入り込み、さらに近代になってヨーロッパの言語が入り込んできた。 私たちの使う言語には、それらが混在している。 どうして、漢字カタカナひらがな alphabet が並存するような言語が成り立ちうるのか。 こういうことは、あまりに当たり前なので、ふだんは私たちはあまり考えない。 それについて考えてみる。 このタイプの混淆言語は巨大な文明圏の周辺部分に生まれる。 朝鮮半島もインドシナ半
前から気になってるんだが、近年「たり」の使いかたが急速に変化しているのが感じられる。「さっきからあの男はずっと、きょろきょろあたりを見まわしたり、小走りに物陰に隠れたりしている」といった具合に使う、あの「たり」のことである。 こいつの使われかたが、最近、あきらかにおかしい。本来、「○○したり、××したり、△△したり……」と、並置する動詞の数だけ「たり」をつけるべきである。というか、並置する動詞の数だけ「たり」をつけるからこそ、並置部分の長さが不揃いであったり、耳で一度聞いたくらいでは覚えきれないくらいに文章が長くなったりしても、なにとなにとなにとを同格に扱っているのかが明示され、意味の塊や論理構造がはっきりして理解しやすくなったり覚えやすくなったりするのだ。 ところが、最近では、並置の最後に置く動詞には「たり」をつけないようになっている。テレビのニュース原稿ですら、もはやそのほうが多数派だ
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く