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ブックマーク / hatanaka.txt-nifty.com (12)

  • 『沖縄で新聞記者になる:本土出身者たちが語る沖縄とジャーナリズム』出版しました - 論駄な日々

    沖縄の出版社ボーダーインクから『沖縄で新聞記者になる:土出身者たちが語る沖縄とジャーナリズム』(ボーダー新書)を出版しました。こので検討したのは、土で生まれ育ち沖縄に移り住んで新聞記者になった人たちの、あまり知られていない経験です。 沖縄島には2つの有力な地方紙――琉球新報と沖縄タイムスがあります。この2紙は、戦後の沖縄でいくつも発行された新聞との競争を勝ち抜いてきた新聞です。日にはほとんどの県に有力地方紙(県紙)が1紙ありますが、沖縄では珍しく2紙が競い合っています。 沖縄の新聞社は、土の新聞社とはすこし違います。戦後27年間も米軍の支配下に置かれてきたため、社員の県民(≓ウチナーンチュ)の比率が高いのです。戦後沖縄の言論は「沖縄人(ウチナーンチュ)の沖縄人による沖縄人のためのジャーナリズムだった」と言ってよいと思いますが、90年代以降、土出身者が2紙の試験を受けて記者になる

    『沖縄で新聞記者になる:本土出身者たちが語る沖縄とジャーナリズム』出版しました - 論駄な日々
  • 同僚記者がセクハラ被害を受けたら - 論駄な日々

    2018年4月12日、『週刊新潮』が財務省事務次官のセクハラを報じました。気になったので、わたしも新潮を買って、記事を読みました。 記事の中で発言を引用されていたのは次の6人。①大手紙記者、②テレビ局記者、③別のテレビ局記者、④別の大手紙記者、⑤テレビデスク、⑥財務省を担当する30歳のある女性記者。⑥は①~④と重複している可能性がありますし、取材協力者がほかにいるかもしれません。被害者は、大手紙や在京キー局の取材記者たちで、財務省担当者がターゲットになったことが分かります。 財務次官にセクハラ発言報道 | 2018/4/11(水) 17:43 - Yahoo!ニュース どの記者も、いまはモリカケ取材に忙殺されていることでしょう。ナン十年に一度の政界スキャンダル。それに比べれば、自分が受けたセクハラ被害は小さいと判断していたのかも知れません。あるいは、自分がハラスメントの標的になることを承

    同僚記者がセクハラ被害を受けたら - 論駄な日々
  • 卒論審査の新方針(剽窃は一発アウト) - 論駄な日々

    「卒論が完成したので添削をしてください」と頼まれるたびに朱をいれて返してきましたが、同じ学生から3度4度と要求されると、教員の身が持ちません。ゼミ生15人の論文を平均3回添削するということは、45回も目を通してチェックしていくことになります。1人あたり1万2000~1万5000文字の分量なので、眼が死にます。(おまけに、大学院生の修士論文もあり、これが1人あたり3万~5万文字が当たり前ですからね) 朱を入れて返しても「言われた通りに修正したので確認を」というメールがやってきて、十分に直っていないところに再び朱を入れると、またまた「言われた通りに修正したので確認して」とメールがやってくる。表記のルールは「社会学評論スタイルガイド」を見てとお願いしても、きちんとできていないので、また朱を入れると、「こんどこそ、これでいいかどうか確認して」と添削のようなことを求められる……。完全な負のスパイラル

    卒論審査の新方針(剽窃は一発アウト) - 論駄な日々
  • 基地と NIMBY (ニンビー) - 論駄な日々

    いまさらながら沖縄の普天間問題について、じぶんなりの考えを備忘録としてメモしておきたい。結論からいえば、わたしはこの問題を、(1) 日の防衛問題、(1) 日米安保問題、(2) 米軍再編問題、そして何よりも(4) 沖縄だけが過大な負担を強いられている不平等問題――などと理解していた。だが、この間の世論の動きをみるにつけ、もっとも深刻なのは ニンビー問題ではないかと考えるようになった。 NIMBY @ Wikipedia http://en.wikipedia.org/wiki/NIMBY ニンビーとは Not In My Back Yard の略。必要なものかもしれないが、わたしが住んでいるところから遠ざけてほしいという態度を意味する。ニンビー問題は、廃棄物処理場や焼却炉、発電所、刑務所などのような、周辺住民の健康や安全に影響を及ぼす可能性のある施設等の建設や設置の際に浮上する。このため、

    基地と NIMBY (ニンビー) - 論駄な日々
  • 週刊朝日の「編集権」 - 論駄な日々

    橋下徹大阪市長の2012年10月18日の記者会見を見ての感想を述べておきたい。私が気にかかったのは、会見の場でも幾度か飛び出した「編集権」である。橋下市長が朝日新聞社の取材を拒否する根拠は、朝日新聞社が朝日新聞出版を所有しているという所有権に基づく。会見に参加していた記者のなかには、橋下市長が抗議する対象は「一義的には週刊朝日で、編集権は別」というような意見もあったが、日新聞協会は「編集権」が所有者に帰属することを1948年の「声明」で明言している。このため橋下市長に対し、有効な反論ができなかったのではないか。 日新聞協会が公表する「編集権」の概念は、CIEから「再教育」を受けていた新聞経営者たちが、読売争議に象徴される労働運動を抑えることを目的に急ごしらえした文言とされ、その政治性は一部の研究者から批判されつづけてきた。問題点をかみ砕いていえば、「編集権」は「経営管理者およびその委託

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  • 地方紙が伝える『日本の現場』 - 論駄な日々

    東京や大阪で生まれ育った人には全国各地に地方紙があることが信じられない。学生時分のわたしもそうだった。でも、大ざっぱに見積もって全国紙の総発行部数と地方紙の合計部数の比率は6:4だ。地図を広げればほとんどの県で地方紙が圧倒している。全国紙が優勢なのは人口が集中している地域だけなので、地方紙の関係者は全国紙を「東京紙」とか「在京紙」などと呼ぶことがある。だが、わたしは「全国紙」が東京都民や大阪府民にとって地元紙や郷土紙としての役割を果たしているとは思えない。 高田昌幸・清水真(2010)『日の現場 <地方紙で読む>』旬報社. 『日の現場 <地方紙で読む>』は、全国31の地方紙の連載企画などを1冊にまとめた一般向けの書籍である。地方紙の記者は、特定の地域で暮らし、地元の人たちとおなじ景色に囲まれ、おなじ空気を吸い、おなじ水を飲み、おなじ言葉(方言)を話し、おなじ問題を共有するのが常だ。地域

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  • 亡くなった子供の写真 - 論駄な日々

    なぜ事件や事故を報道しなければならないのか。そのようなことを考え始めると、じつに厄介だということに気づく。社会全体に大きな影響を及ぼすような、つまり、不特定多数の読者・視聴者にも影響が及ぶような重大事件や重大事故は、公共の福祉の観点から報道しなければならない。そうれは論を待たない。しかし、そうではなくて、ありふれた事件や事故、火事などは、取材の必要はあるとしても、報道の必要はあるのだろうか。掲載許諾をもらうこともなく死者の顔写真を掲載することの正当性は、どのようにして調達できるのか。 新聞記者になって最初に罪悪感を覚えたのは、火事で亡くなった子供の顔写真を接写したり借りたりしたときである。当時はまだ大らかな時代であった。亡くなった子供が通っていた幼稚園や小学校に行くと、遠足や記念撮影の写真を接写させてくれた。それが無理でも、クラスの名簿などはたいてい見せてもらえたので、同級生の子の家に行き

    亡くなった子供の写真 - 論駄な日々
    kaeru-no-tsura
    kaeru-no-tsura 2010/08/10
    >ありふれた事件や事故、火事などは、取材の必要はあるとしても、報道の必要はあるのだろうか。掲載許諾をもらうこともなく死者の顔写真を掲載することの正当性は、どのようにして調達できるのか。
  • 軽い軽蔑 - 論駄な日々

    社会人大学院生になって2010年で7年目を迎える。今では信じられないことだが、6年前の入学当初、わたしは学問自体に大きな期待も抱いていなかったし魅力も感じていなかった。格的に面白くなってきたのはDに進んでから--D進学というイニシエーションを経て、ようやくジャーナリズムとアカデミズムの関係を冷静に見つめることができるようになったように思う。年があらたまったのを機に、ジャーナリズムとアカデミズムの微妙な関係について、考えを整理しておきたい。 昨年、某学会で某教員がジャーナリスト経験のない学者と学門経験のないジャーナリスト教員の間に「軽い軽蔑がある」と話した。冗談めかした口調だったが、核心を突いているように思えた。この問題は、表だって論じるのがとても厄介だし、だれも積極的に触れようとしない。下手なことを言うと、すべて跳ね返ってくるからだ。だけど、多くの人が薄々感じていることは間違いない。 わ

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  • 一人称と三人称 - 論駄な日々

  • 落合采配で考える個人と組織 - 論駄な日々

  • 住民参加と読者参加 - 論駄な日々

  • 身辺雑記ブログは「二流」ですか? - 論駄な日々

    最近、数人から聞かされた?な意見をメモしておく。数人というのは、シゴトつながりではないけれど、PRやジャーナリズム、マスコミなどに軸足を置く国際派の人たちで、いずれも尊敬すべき立派な人物である。たまたま似たような意見を立て続けに聞かされたので、すこし不思議な気がした(みんなグルか!?)。 「日人のブログは日記や身辺雑記みたいなクズが多くて、つまらない」 「残念ながら日から良質なブログ(ブロガー)がなかなか生まれてこない」 フツーの人たちの日記・身辺雑記的なブログが、いったい何と比べて“二流”と見下されるのだろう。もしかして、米CBSのダン・ラザーを降板させたブロガーたちの健筆ぶり比べて「つまらない」のだろうか。ホワイトハウスの記者会見に出入りを許してもらえるようなブロガーのブログが日にはないことが、日のブログ界?のダメさを表しているのだろうか。うーむ、どうも分からない。 この国に暮

    身辺雑記ブログは「二流」ですか? - 論駄な日々
    kaeru-no-tsura
    kaeru-no-tsura 2005/05/17
    「スレイヴ」作者の畑仲さん
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