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ブックマーク / yasudayasuhiro.hatenadiary.org (9)

  • セカイを仰ぐ(90年代サブカル私見断片)2 - 原野商法1997

    無期限の徒刑囚のように、僕はこれから何十度も娘たちに服を買わねばならないのだろう。何千年分の味気無さを、先取りしなければならないのは、僕たちが輝かしい者たちの末裔だからであり、その血のたぎりの余熱を、残像を知っているが故の懲罰だった。 すべては終わった、と云う事が出来るように、何も終わっていない、何も始まっていない、ということも出来る。有線放送に耳を傾けながら女の子が試着を終えるのを待っている間にも、海の底では石臼が回り、数百万人の人々が拳を振り上げ、慟哭している。だが結局は同じ事だ。 福田和也「天は仰がず 小説家・中上健次」 自分は、まあ、ひねくれ者だと思う。 中学生の頃、同世代の人間が『セーラームーン』や、あかほりさとるや、『天地無用』にハマっている中、自分は田丸浩史や西川魯介の活躍する『少年キャプテン』を愛読していた。それと、ねこぢるが好きだった。オタ友が、あかほりのラノベを読んで「

    セカイを仰ぐ(90年代サブカル私見断片)2 - 原野商法1997
    kamayan
    kamayan 2007/12/10
    7年も前のマンガを改めて評価していただき、何事かとも思うが、ありがたい限り。
  • セクトといえば少女セクト Part.A - 原野商法1997

    http://d.hatena.ne.jp/yasudayasuhiro/20070814#p1 http://d.hatena.ne.jp/i04/20070814/p3 このオフ会で、「日向めろん=一人べ平連」と言ったら、他の参加者全員からドン引きされた。 デモが好きか?と問われると正直困る。そんなものやったこともないし、見たこともないからだ。学生運動は?という問いも同様である。通っていた大学にその手の人々はいなかった。それどころか、彼らのライバルであろうナンパ系サークルも元気がなかった。オタ系サークルもほぼ壊滅。人は授業が終わるとまっすぐ家に帰るか、パソコン室でインターネットをしていた。私はそのなかの一人であった。 左翼系教授陣も元気がなかった。人は実学を好む。経営学や金融学、公務員試験や資格に関係ありそうな授業が人気だった。虚学も無いわけではなかったが、マルクスは退陣していた。なん

    セクトといえば少女セクト Part.A - 原野商法1997
    kamayan
    kamayan 2007/09/19
  • 原野商法1997 - コミュニズムからコミュニティへ。バリケードからATフィールドへ。やがて絶対領域へ。

    オクタゴニアン (1) (カドカワコミックスAエース) 作者: 杉浦守,大塚英志出版社/メーカー: 角川書店発売日: 2005/08/26メディア: コミック購入: 1人 クリック: 3回この商品を含むブログ (19件) を見る『オクタゴニアン』の単行を読んだのだが、感想特に無しm9(^Д^)面白いけど。 大塚英志はロリコンブームの着火点の一人なのだが、彼の原作のマンガが総じてロリコン的で無いのは、なぜだろう? (↑訂正。んなこともない。大野安之とか。ただし死体に拘った彼の作品群は総じてロリコン的ではないのでは?) 山崎峰水は山崎浩名義で『どきどき』のようなロリマンガを描いているのだが、無論大塚原作の彼のマンガはロリマンガ的図像ではない。 よくわからんが、大塚のマンガ史は、マンガの身体を「リアル」に見てしまった私たちと、そのような身体を持たされてしまったキャラクターの苦悩の歴史だ。それは

    原野商法1997 - コミュニズムからコミュニティへ。バリケードからATフィールドへ。やがて絶対領域へ。
    kamayan
    kamayan 2007/06/05
  • 2007-04-07

    「ノリつつシラケる、シラケつつノル」だっけ?こういうことができるのは分別のある人間、確固たる自己を持っているバランス感覚のある人間だけだわな。「萌え」でも「非コミュ」でも「政治」でもいいや。この手のものにどっぷりと浸かっているヤツにバランス感覚みたいなものはあるのか?といえばややこしい問題だけど、バランス感覚が求められるのは確かだ。 よく知らんが、オウムも連合赤軍も、平衡台から足を踏み外したヤツラだ。「オウム」も「連合赤軍」もギャグだったんじゃないか。でもヤっちゃった。その後に出てきたのが、皆大好きな新左翼運動の壊滅だったり、「保守化」の動きだったりする。例えば、オウムがサリン事件を起こさなかったとしたら、「安全」という物言いにかかる偏りもちょっとは違うものになっていたんじゃないか? 「悪の石原を破るチャンスにも関わらず、ネチズンは呑気に外山MADを楽しんでいた。」「悪の石原を倒すべく、当

    2007-04-07
    kamayan
    kamayan 2007/04/07
  • 2007-02-20

    これを観て感動した。だけどハルヒが歌っている「ダメ人間かぞえ歌」をちゆ12歳さんが言及していたことを知って、なんだか脱力した。ああ。異化作用だとか、未知との遭遇だとか、新発見だとかそういうものは無くて、一定のデータベースの中でぐるぐる俺はやっているのだと。 と思ったらもう消えた。「ダメ人間かぞえ歌」ではなくて「ダメ人間かぞえ唄」だ と思ったら復活

    2007-02-20
    kamayan
    kamayan 2007/02/20
  • 2007-01-16

    オタクといえばロクデモないものという刷り込みがある。中学生のときに、イジメられっ子かつ両親が別居中かつバカ。という地獄のような境遇の人間と遊んでいたのだが、この男が好きだったのが、天下のあかほりさとるである。私は生きた根敬マンガである彼に西川魯介と田丸浩史を薦めておいた。彼曰く「わからん」。 大学の授業に出ずに大学の図書館に篭って論檀紙を読みふけっていた頃、東浩紀が『ユリイカ』でleafのエロゲの図像を引用していたのを目撃した。ああいうものと決別するために糞面倒臭いを読んでいるのに、困ったもんだなあとか思うのと同時に、微かな興奮を覚えた。エレクチオンのことではない。 さてゼミの教授は三浦雅士のファンだった。構造主義の人で、マルクス主義やらその他左翼を嫌っていた。カルスタも取り扱っていたように思うが、その政治臭には敏感だった。「先生!東浩紀とか柄谷行人ってどうですか?」「ああそれ嫌い。」

    2007-01-16
    kamayan
    kamayan 2007/01/17
  • 2006-08-15

    西尾幹二の三島由紀夫論は澁澤龍彦に絶賛されたらしい。 1945年8月15日は歴史的な日付なのだが、8月15日自体に何かの意味はあるのだろうか?日が降伏文書に調印した9月2日に注目したっていいはずだし、年中戦争による死者のことを考えていたっていいはずだ。 8月15日にうな垂れてみることは年中行事である。年中行事と、一回の出来事や、線上に伸びていく歴史とは、ある種矛盾するものだと思うのだけど。 8月15日は確かに死者が帰って来る日ではある。でもそれは仏教の話であって、神道とは関係がないはずである。こういう日に靖国神社に参拝するのは、いかがなものだろう。ルーズといえばそうだし、「これぞ日」という感じもする。 そもそも私たちの魂は死んだらどこへいくのだろう?今、英霊は古戦場を彷徨っているのだろうか?それともあの世に行ったのだろうか?草葉の陰から私たちを見ているのだろうか?山の向こうに行ったのだ

    2006-08-15
    kamayan
    kamayan 2006/08/16
  • ピンクサタンは去り行くサタン - 原野商法1997

    民団と総連の歴史的和解ってのがあったそうだけど、半島の方のおっしゃられる「歴史的」という物言いの信頼度ってものはどんな感じなのだろう。つまり当人たちは大真面目なんだけど、日人とマスコミにいわせたら単なるギャグというかユーモアにしか受け取られていないのじゃないか。少なくともネット右翼的には皮肉の効きまくったギャグのようにしか思えない。 では現在「歴史的」という物言いが強度をもったものとして流通することができる場所、または流通させることができる人間というものはどこかにあるのだろうか?まあ、おそらく、ない。藤岡信勝やら少し前の右翼は「戦略的」という物言いを好んだわけだが、「歴史的」というものが嘲笑の対象にしかなりえない場所に「戦略的」もクソもない。勿論、そんなものなくてもいい。「それでも9条なら、それでも9条なら何とかしてくれる(AA略)」と粋がってみせる2ちゃんねるの「いま・ここ」をぶっ潰す

    ピンクサタンは去り行くサタン - 原野商法1997
    kamayan
    kamayan 2006/05/20
  • 2006-04-05

    佐伯啓思『「シミュレーション社会」の神話』を読む。なんじゃこりゃ。内容は横に置くとしても、この言い方はどうなんだろう。 事をするときもトイレへはいる時もウォークマンを頭にひっかけたままで絶え間なく鼓膜を愛撫し続けているウォークマン中毒の若者は... 都市のワンルームマンションにささやかな王国を構え、真夜中の六木のディスコでひと踊りした後は、ちょっと高級な外車で湾岸道路を疾走する。こんな悲しいほどに類型化された都市生活者がいるとしたら、彼の生は、彼のような都市生活者を主人公にした映画テレビドラマの「シミュレーション」にすぎないのである。 ここではあらゆる文化的商品を―『「資論」から「トットちゃん」まで』(吉隆明)を、芸術写真から盗み撮り写真までを、タルコフスキーから村西とおる監督までを―... 書には『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』の解説のようなものも載っているのだが、とて

    2006-04-05
    kamayan
    kamayan 2006/04/05
    つくる会
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