この2ヵ月ほど必死に遊んできたNintendo DS『おいでよどうぶつの森』ですが、このほど無事に終了しました。いや、ちょっと待て、あれはエンディング迎えるようなゲームじゃないだろ! という声が各方面から聞こえてくるのでご説明しますが、『おいでよどうぶつの森』には、32×32ドットのサイズでオリジナルの絵が描ける「マイデザイン」という機能があります。わたくし2ヵ月ものあいだ森で何をやっていたかというと、この機能を利用してちまちまちまちまロックの名盤のジャケット画像を作っていたんですね。 本当なら語呂よく「ロック名盤100選」といきたかったのですが、このゲームでは、キャラクター1人につきセーブできるマイデザインは8枚まで、という制約があります。そして、最大4人まで自分の森に住まわせることができますので、トータルで作れるマイデザインは、8×4=32枚ということになります。だから「ロック名盤32
前回からmixiにも同じ内容の日記を書いています。先日、外部のブログにはコメントがしづらい、と言われたからです。言ってもらって、悪い気はしませんでした。 その後、mixiでもコメントをもらいましたが、そのうちのひとつにこんなものがありました。「コメントつけ易いけどくだらないこと書いてしまいそう。許して。 」そういえば、1ヶ月ほど前に別の人から「貧弱なコメントでゴメン!」とも。どちらも、私を10代の前半から知る人からです。 つまらなければ、何も書かなければいいし、何か思うところがあれば、そう書いたらいい。ブログ、とくにmixiならクローズドだから、まあ、どんなコメントを書いてもたいてい許されるはずです。しかし、以前からの知り合いにわざわざエクスキューズさせる、というのはどういうことでしょうか? 気がついてみれば、私も気軽なコメント、というのを書いていません。つい、何か情報やネタを入れなければ
そうなんだ。 気持ちを「言葉」にしたときに、こぼれ落ちることがたくさんある。だから、ぼくたちは「思うように伝わらない」というジレンマを永遠に抱えながら、でも伝えようとする。 どうして、「言葉」にすると、たくさんのことがこぼれ落ちるのか? それは、言葉が個人のものではなく、伝えるためのもので、社会のものだから。 ぼくの「りんご」に対するイマジネーションと、あなたの「りんご」に対するイマジネーションは、ズレていて、一致することがない。 それどころか、ぼくが、ぼくのイマジネーションとして「りんご」と発した瞬間に、それは社会的な「りんご」というイマジネーションを帯びてしまう。純粋なぼくの言葉としての「りんご」は消えてなくなってしまう。 ぼくの「りんご」は、言葉にすると、ぼくの「りんご」じゃなくなってしまうんだ。 これは、絶望なのかな。 それとも、希望なのかな。 ていねいに言葉を重ねていけば、そのズ
(3/7「さあブログをやめよう」→「正しいブログのやめ方」とサブタイトルを変更しました) 米光一成さんの連載「ブログ文章術」:http://blog.excite.co.jp/blog-jutsu/979930/ を読んでふと思うところを書いております。 バックナンバー: 第1回:僕の考えるブログ文章術 あなたのいるべきばしょはブログじゃない 前回の結論は「それなりに友人もできた。ならばブログをやめて、SNSに行こう!」でした。 さあ、ブログをやめよう Q:残されたブログの処置として、最も適当なものはどれか。 いっそ完全閉鎖してしまう とりあえず放置、あとはぼちぼち考える 「これからはSNS(mixi)を中心として活動を続けていきます。長い間応援ありがとうございました」とアナウンスして更新を停止する A:正解は2。 1の完全閉鎖も思い切りがよくて悪くないが、帰れる場所を残しておくに越したこ
好みが分かれるところだと思いますが、記事の全文表示を「続きを読む」スタイルにしてみました。 (現在LOVEカテゴリのみ) ■折りたたみ表示はStyle bookさんを参考にしました。 Seesaaの追記部分(続きを読む)は好きな場所に設定できますが、デフォルトでは別ページになるので、同一ウィンドウで開け閉じができる折りたたみ表示はけっこう便利だと思うのですがいかがでしょうか? 部分表示のメリット・デメリットそれぞれあると思いますが、 過去ログのほうから順に部分表示に変更しようと思っています。 「続きを読む」に関して参考にさせて頂いた記事 ■むだづかいにっき♂:「続きを読む」の意外な効用 ■BLOG STATION:続きを読む? ■S嬢のPC日記:ブログ閲覧時の「部分表示と全文表示」 ■ボムガール:続きを読む
ある大学の依頼で添削についての講義をした。結論は要するに、文章の能力は自分で自分の文章を添削できる能力だということだ。文章の能力というと、アイディアを文章に書ける能力のように思われている。しかし、草稿を一気に書き上げる能力というものはたいしたものではない。それよりも大切なのは、自己添削能力である。 文章を書くときには、最初の一文から推敲は行われている。書き出しの一文を書いてから、どんな展開になるか、どんな結末になるか、ということは考えられる。それを「推敲」というわけであるが、「推敲」がやや観念的な印象があるのに対して、「添削」ということぱは実践的である。 一般に添削というと、その内容は「校正」とさほど変わらないものである。誤字・脱字の直しや、文末の統一などにとどまっている。しかし、本来の添削は推敲とほとんど変わらないものである。推敲が観念的な印象があるのに対して、「添削」は実践的もので、具
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く