石原都政に批判的な人々に今求められているのは、繰り言を言うのではなく、なぜ石原氏が支持されたのか、ということと、なぜ反石原氏の声は届かなかったのか、ということの考察であり、さらに言えば、反石原を説いてきた自分の論理の再検討ではないか。自分の論理の根幹を変える必要は当然ない。しかし少なくとも今やそういう論理は少数派になりつつあり、少数派としてどう主張していくのか、ということを考えなければならないはずだ。反石原の論陣を張る者にとって今必要なのは石原都政の継続を選択した東京都民批判ではなく、むしろ石原都政を継続させた反石原陣営の総括である。東京都知事選の結果の感想 - 北条時輔ファンサイトとりあえず左派の人は、現実の「世間」に対して行動するなら、自分たちがもはやほとんどの人にとっては蛆虫以下の気持ちの悪い存在、もしくはカルト宗教団体以下の危険物でしかないということを自覚して行動したほうがいいかも
続・反エリート - DeSeanの日記 〜〜〜♪いや「産む機械」発言はその辺のオッサンオバハンがしてもTPOによっては顰蹙買いますって(^^;)ってのはおいといて、ちょっと思ったのは、この種の「問題発言や行為」を問題にする問題(ややこしいな)において真に怖ろしいのは、「その発言が不愉快だ」とか「問題がある」と指摘する/されること自体というより、そうやって指摘された(場合によっては「指摘した」)ことに対して、ときにはそれまで築き上げてきたすべてを失わなければならないところまで責任を問われ求められ追い詰められてしまう、というイメージが必要以上に一人歩きしているということじゃないかと。たとえば「差別主義者」というレッテルにせよ、他人にレッテル貼りをする行為自体は至る所で行われている。そういったレッテル貼りに対しては、しばしば「そんなもん気にするな」というアドバイスがなされ、実際スルーする人も多い
asahi.com:朝日新聞のニュースサイト「人が窒息して苦しむ姿に性的興奮を覚える」…こういう嗜好(記事では「性癖」と書かれている。一種の性的嗜好ではあるか)を現実化されると確かに困るし、3人も殺しているし、殺された人たちは気の毒だと思う。でも「再犯を防ぐためにも極刑をもって臨むほかない」って結論は… 現実化してはいけないような性的嗜好を持つがそれを現実化せずにすんでいる人も世の中いると思うのだが(この人だって事件を起こすまでは抑えることができてたわけで)、何かこの被告には更生のための指導や教育(性癖自体はどうしようもなくても現実化しないようにできればいいと思うんだが)を受けつけない、そのための指導をすることは物理的に不可能と判断されるような何かがあったのだろうか。そうではなく(もちろん自分勝手な理由で3人殺したという理由がいちばん大きいのだろうけど)「特異な性癖」だから更生させようがな
数年前バスに乗っていたとき、こういうことがあった。私のすぐ後ろの席に男性の二人連れが乗っていた。乗るときにちらっと見たが、一人はかなりオッサンでどうやら出張か何かで福岡に来ている人らしい。もう一人は若くて、おそらくそのオッサンの案内役の地元の人。そのオッサンが連れを相手に何を喋っているかというと「福岡市がいかに田舎か」ということを熱心に説いているのだった。しかもかなり大声で。福岡が田舎である根拠としては、地下鉄の路線が少ない、ということだった(当時は七隈線もなかった)。主要道路の地下に地下鉄が走っておらず路上をバスが走っているなんて田舎だ!というようなことを熱く主張。比較として地下鉄が走っている他都市を出して、福岡のほうが田舎だと強調。でも別に地下鉄愛好家というわけでもなさそうで、ただ福岡は田舎であると言いたいだけのようだった。しかもバスは西○の独占状態だ、それがいかん、みたいなことを大声
自分を異質として少数派にしてしまうのはどうしてなんだろう。メモこれはやはり経験によるところが大きいのではないかと。子どもの頃からの積み重ねで、「あんたは変わってる」とか「気持ち悪いからこっちに来るな」とか、まあその種の否定的・排除的なことを何度も言われていたり、好きなもの同士でグループ作ったら必ず余るとか、ケンカしたら周囲は皆傍観者か相手の味方、というような経験をフォローもなしに重ねていると、「自分は他の人には受け入れてもらえない「違う」ところ「おかしな」ところ「間違っている」ところがあるのだ」と思い、またそのことを否定的に捉えるようになっても、ある程度仕方がないと思います。もちろんそこで一所懸命「悪い」と思われるところを「直した」結果、皆に受け入れられるようになったとか、成長過程でそのような認識を覆すような経験があり、自己像がポジティブなほうに修正されたという人もいると思うけど、そういう
上に設けてみました。理由としては単に私が、発言の細かいところの矛盾点をついていくような話や、何が「正しい」かに関する議論を読んだり参加したりするのが苦手ってことなんですが(特定個人の発言が迷惑ということではありません。念のため)。コメント欄の使い方とかブログ空間は誰のものかということにはいろいろ見解もあると思うけど、管理人が(明示するにせよしないにせよ)マイルールを置いて専制的(笑)に運営するのは、ある程度許容されていることのようなので、ちょっとやってみることにしました。
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://sana0329.cocolog-nifty.com/silent_voices/2007/01/post_5d02_1.htmlにてMasao_hate 横レス ↓kmizusawaさんが考える「友達と恋人の違い」が聞きたいなぁ。僕は「性欲が沸くか、沸かないか」。というリクエストを受けました。私も「性欲」あるかないかで線引けるかなと思うんだけど、その「性欲」というのがまた…「性欲」と言った場合、端的に言ってその人とセックス(この場合は挿入行為など性器接触のあるもの)やキスをしたいという欲求なのか、それとももっと広範に、その人の身体の一部(髪や背中など)に触りたいとか抱きしめてスリスリしたいとかいう気分になるとか、そういうものまで含むのか、そこら辺がまたわかんなかったりします…っていい歳こいて何言ってんだ私。後者だとした
1.自分にとってどうかというより社会的に「まずいだろう」というような気持ちがある場合。差別している人に怒るとか、学問的に間違ってるとか。2.ルサンチマン、羨望。金持ちが贅沢してるのを叩いたりとか。3.コンプレックスを刺激される。親のすねかじりをバカにする人に対して、自立できてない人が反発するとか。4.単に叩いて優越感を味わいたい。1とセットになりやすい。犯罪者叩いたりとかさ。5.自分が直接言われたりされたりしたことに対して不当だと感じて腹が立つ。バスに乗ろうとしていたら突き飛ばされたとか。4とセットになりやすく、さらに1っぽい理屈がついたり。6.とにかく気に入らないので排除したい。気持ち悪いので排除したい。1とセットになりやすい。 2と3は自在にどことでもくっつく。ホントの動機は別のとこにあるんだけど、1のように装うってのも多い。本来表に出すべき批判は純粋な1のケース及び5のケースを「腹が
■コミュニケーション下手な人や人間関係の築き方にまずいところがある人が当然のように非難されてるのを見ると憂鬱になってくる 某所で「正論を言う人」のことが話題になっていたのだが、それに対する反応を見て、やっぱり正論というのは嫌われるものなのだなあと再認識。このブログにもときどき「正論」というブクマコメントがつくことがあるが、そのようなコメントがつけられるということは、そのようなエントリを書いている私もあんまり好かれてはいないのだろうな。ここはわりと多くの人がRSSに登録してくれてるようなのだが、気に入ってるから見に来てくれる人ばかりではないのは重々承知である。まあどうせネットの上のことだし、好かれてるとか嫌われてるとかどうでもいいんですけど。(と言いつつ書いているのは一種の矛盾である) そーいや高校生のとき、クラスの女子同士ではニックネームや下の名前や○○ちゃんというような呼び方をするのが一
それは「女性の自己表現」を推進するフェミニズムのせいだ!それは「私はこう感じました」というような「I(アイ)メッセージ」を推進するアサーティブコミュニケーション(←知らない人は「アサーティブ」とか「アサーショントレーニング」とかでぐぐってください)推進派のせいだ!それは自分の権利だけを主張するように教え込む戦後民主主義教育のせいだ!若さゆえの過ちだ!ゲーム脳だ!日教組の陰謀だ! …とかなんとか言ってすませたくなるくらい、はっきり言ってどうでもいい感じ。それが犯罪を構成したり職場で隣の席に座っててどえらい迷惑とかいうのでない限り、人がどういうコミュニケーションの仕方を選ぼうが、どんな具合に自意識を垂れ流そうが、言われたことに反応しようが無視しようが言訳して墓穴を掘ろうが、認識がゆがんでいようが、開き直っていようが、コメント欄を閉じたりブログ閉鎖したりしようが、都合の悪いコメントを鬼のように削
公用(=雑用)はいつ片付ける?http://d.hatena.ne.jp/appuappu/20060817/1155803240一人暮らしの人はもちろん、フルタイム共働きで遅くまで働いている人も多くなってる昨今、お役所や銀行や郵便局などの窓口が平日の9時〜5時ごろまで(+土曜は12時まで)しか開いてないというシステムはほんと困りものである。コメント欄でも紹介されているように、そういう「昼間空いてない」人に対するサービスも少しずつ拡大されてはいるのだろうし、普段は自動引き落としだの、窓口に行かずとも用事が済ませられるように、皆いろいろと工夫してると思うのだが、それでもどうしても窓口に行かねば済ませられない用事もあるだろうし、すべての地域や機関で制度が整っているわけでもない。土日や夜間も開けてくれよー、サービス拡大してくれよー、という要望が出るのは必然である。そーいや以前、私の住んでる自治体
なんか最近、中絶の話をよく見かけるけど、すげー違和感がある。特に男性らしき人が「レイプされた女性の気持ちを考えろ!」とか「レイプの場合は中絶してもしょうがない」とかそれでも生んだほうがいいとか、やたらとレイプを引き合いに出して熱く善悪を論じているのを見ると、あんたらレイプされたことも妊娠したことも女性だったこともないだろうが、と言いたくなって来る。(トランスジェンダーの方がいらしゃったら申し訳ないですが) 女性の私でさえ、それがどういうことなのか経験のない者が軽々しく話題にするのははばかられる(自分だったらどうするだとかどうなるだとか今言えることではない)、まして善悪だのどうすべきだの言える立場にはないデリケートな事柄だと思うのだが。男性はレイプされた女性がどういう行動を選択すべきかより、いかにすれば性暴力をなくせるか、望まない妊娠をさせずにすむかの対策を考えてもらいたい。女性が中絶を選ぶ
■「当事者以外は語るな」 と言えるのは実は「当事者だけ」って気がする。当事者でない人間には「語るな」という権限はないよ。 当事者以外の人間に言えることは、当事者でない人は当事者を勝手に代弁するのはやめよう(もしくは「やめるべき」)ということかな。当事者でない人は当事者のように語ることはできない。 ただ、当事者でない人が勝手に代弁していてそっちのほうが当事者自身の声よりでかいという場合、あえて「当事者以外は当事者の経験について語るべきではない」と言う事はできると思う。 Permalink | コメント(6)
スポーツで日本が勝てないのは豊かさ故のハングリー精神の欠如だという人へ http://d.hatena.ne.jp/Maybe-na/20060524/1148473644これ読んで思い出したのが「東南アジア(アフリカや中南米でも可)の子どもたちは経済的には貧しい暮らしでも目が生き生きと輝いている(それにくらべて日本の子どもは…)」といった類の、一見謙虚で反省的なように見えて、その実自分がそういう貧しい状態になることはないことを露ほども疑っていないところから発される誉め言葉(最近はあまり見かけない気がするが)。保守論壇が好む「昔の日本はよかった(母親の手作り朝ごはんとか親の権威とか…)」なんていうのもある意味似たようなもんかもな。じゃあアンタ、タイムマシンを提供するからあなたが「よかった」とするその時代(戦前、明治時代、昭和30年代…江戸時代美化する人なら江戸時代でも)に戻れば、と言ったら
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