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ブックマーク / taknakayama.hatenablog.com (10)

  • “アンチ・カラヤン”が消えた二つ目の理由 - 横浜逍遙亭

    “アンチ・カラヤン”が減った最初の理由が彼の肉体がこの世からなくなったことに由来しているとすれば、二つ目は時代がカラヤンを乗り越えて前に進んでいったことに求めてよいだろうと思う。カラヤンの先進性、新しいことに対してアグレッシブで完璧主義、ビジネスマンシップに富みテクノロジーに先見の明があるといった彼のライフスタイルは、今の時代ならば若者からお手として崇められるような類のものだ。いや、崇められるなんて言うのは大げさにすぎるばかりで、当たり前の前提と思われてしかるべきなのかもしれない。 音楽的には古楽が聴衆の間で際物以上の存在として認められたこと、カラヤンのように人と違うことをやること、自己主張をすることを美徳とする音楽家が普通の存在になったことによって、カラヤンの音楽はいつの間にかオーソドックスの部類の入るようになってしまった。ある日、久しぶりにカラヤンの録音を聴いた僕の耳は、ほんとうに彼

    “アンチ・カラヤン”が消えた二つ目の理由 - 横浜逍遙亭
  • “アンチ・カラヤン”が消えた一つ目の理由 - 横浜逍遙亭

    昨日のカラヤンに関するエントリーには、kanyさん(id:kany1120)から次のようなコメントを頂いた。 町のCD屋で購入できる交響曲はだいたいカラヤン指揮のものでした。だから、こういうふうな経緯があって、アンチという人もいるということが新鮮です。 「アンチな人もいる」というフレーズが、自然な世代間ギャップを示してたいへん興味深い。70年代後半、長島が引退し、王に往年の迫力がなくなって思い通りにホームランを打てなくなるさまを見ながら「王と長島がいないプロ野球なんて想像できないなあ」と呟いていたアンチ巨人の僕にしてみると、大して憎たらしくもなくなってしまった読売巨人軍には未だに「アンチな人もいる」らしいのに、カラヤンへの身勝手な反感はあっという間に消えてなくなったこと自体に、なにがしら心が和む部分がある。 kanyさんの言葉は僕が今頃「カラヤン全集」などを買うことになった理由の一面を言い

    “アンチ・カラヤン”が消えた一つ目の理由 - 横浜逍遙亭
  • カラヤンの独自性 - 横浜逍遙亭

    僕が物心ついた頃には、カラヤンの音楽はレコードや放送を通じて世界中でもてはやされており、もちろん日もその例外ではなかった。子供の頃にそうだったということは、つまり、僕はカラヤンの当の衝撃を知っている世代には属していないということを意味している。我々の上の上の世代、フルトヴェングラー、ワルター、トスカニーニ、ストコフスキーといった人々の録音で管弦楽の世界を楽しんできた人々にとって、当時の若手指揮者であるカラヤンが紡ぎ出す音楽当に異質な何かだったんだろうと想像はできるが、それが単なる想像の域にとどまらざるを得ないのは、19世紀後半の横浜村の漁師にとって、初めて接した異人さんにはびっくりしただろうなと想像するのと同じである。 僕らの子供の頃はクラシック音楽といえば、カラヤンだった。相撲は大鵬で、野球は巨人だったように、クラシック音楽のアイコンはカラヤンだった。彼の写真が大きく表紙を飾る名

    カラヤンの独自性 - 横浜逍遙亭
  • ブログは日本語を滅ぼす - 横浜逍遙亭

    水村美苗著『日語が亡びるとき』を読んで、真っ先に意識が向かったのは表題のことだ。インターネットの時代となり、英語が普遍語としての影響力をますます増しているのは、同書で水村さんが指摘するとおりだと思う。しかし、インターネット時代における審美的な側面での日語の滅びを問題とするならば、英語に対する国語としての日語の相対的な地位の低下と同時に、乱れた日語がこれでもかと飛び交うインターネット空間、とりわけブログのことをどうしても問題にしなければならない。 以前、僕は「ブログを書くと日語が下手になる」というエントリーを、自身の率直な感想を基に書いた。そのときに書いたことを繰り返すと、僕のようにパソコンに向かい合った瞬間の日々の感想を、ほとんど推敲もせずに言葉にする類のブログは、誤字脱字という低級な次元を含めてひどい日語を撒き散らす元凶である。かつて、かつてと言ってもたった数年前まで、文字を

    ブログは日本語を滅ぼす - 横浜逍遙亭
  • 水村美苗著『本格小説』、あるいは昨日の『日本語が亡びるとき』批判を批判的に眺める - 横浜逍遙亭

    昨日のエントリーでは、『日語が亡びるとき』に関し、著者の語り口のある部分、または思想に対して批判を書いた。水村さんがもっとも意図したであろう、近代日文学の(再)評価と日語の豊かな将来とを理論的に連結したいという試みについて僕が評価しないのは昨日書いたとおり。ただ、欠点と思われる部分をあげつらって批判をするのはとても簡単なことであるし、同時にあまり格好いい態度とは言いかねる。自分のエントリーを読んで、あらためてそう思う。そして、僕はとるかとらないかと訊かれたらとらないと書いたが、実はこのはそれほど単純なではなくて、瑕疵を持ってしてあまりある美質があることにも、きちんと言及をしなければ不当だろうと思う。 昨日指摘したこれか、あれかという尺度で過去の日語と現在・未来の日語を比較している部分について僕は水村さんの論に同意はしない(僕はどうしたって、あの6章の語りは戦術の失敗だと思う。

    水村美苗著『本格小説』、あるいは昨日の『日本語が亡びるとき』批判を批判的に眺める - 横浜逍遙亭
  • 水村美苗著『日本語が亡びるとき』 - 横浜逍遙亭

    水村美苗著『日語が亡びるとき』を読んだ。これだけネット上で話題になっているだし、そこそこの読後感は期待していたが、この読書は“とんでも”な内容を含めていろいろな意味で面白かった。 著者の偏見に寄り添うように語るならば、僕には「小説家が書く評論は例外なくつまんない」という思い込みがあって、しかるにこのに関しても読む前から「つまらないに違いない」と思っていた。梅田望夫さんの絶賛があろうが、「良い意味でこのは期待はずれで面白いです」という小野さん(id:sap0220)のコメントがあろうが、である。漱石だろうが、丸谷才一だろうが、大江健三郎だろうが、小説家の評論は、その小説に比べてつまらないものと相場が決まっているのである。どこで決まったかというと、僕が決めた独断と偏見である。小説も評論も面白いというのは、たとえば橋治がそうかとも思ったりするが、やはり橋のおじちゃんは評論家である。

    水村美苗著『日本語が亡びるとき』 - 横浜逍遙亭
    kanimaster
    kanimaster 2009/01/08
    同意。/『本格小説』はすごく面白かった。
  • ブログを楽しみのためではなくやるとしたら - 横浜逍遙亭

    ニューヨーク・タイムズが掲載したブロガーの現状をめぐる記事を読んで、彼の地のブログ事情に驚いた。僕はアメリカのブログはいくつかをときどき目にする程度で、ほとんどその状況を知らないに等しいので、とても勉強になった。いやはや、すさまじい話が書いてある。 ■In Web World of 24/7 Stress, Writers Blog Till They Drop (New York Times 2008年4月6日) 日アメリカではブログという技術的な仕組みを使いながら、世に出てくるものはかなり異なるようで、ニューヨーク・タイムズには「なかには楽しみのために書いている者もいるが、ほとんどは出版社の社員になったり、契約を結んだりして仕事として書いている」と書かれている。どうりで、その手のプロが情報を紹介するタイプのブログが多いはずだと初めて合点がいった。アメリカではブログを生活の糧にして生

    ブログを楽しみのためではなくやるとしたら - 横浜逍遙亭
    kanimaster
    kanimaster 2008/04/13
    元記事へのリンクが切れています。(修正済み。
  • 「偶然だぞ」でちょっと遊んだ - 横浜逍遙亭

    シカゴ・カブスの開幕戦で、福留孝介を応援する「偶然だぞ」のプラカードが球場で揺れる映像をご覧になっただろうか? いったい何がどうしたのかとびっくりしたやらおかしいやら。いちおう、野球に興味のない方にも何の話をしているのかをお伝えしておくと、中日ドラゴンズからカブスに移籍した日でも指折りの外野手、福留選手の地元ファンへのお目見えのホーム初戦で、「偶然だぞ」というプラカードを手にした観客がたくさんいたのである。それがしばしばテレビに映る。福留がバッターボックスに入ると、大歓声が起こり、「偶然だぞ」のプラカードがあちこちで堂々と頭上に掲げられる! 間違いなく日語を知らないアメリカ人の誤訳であることは推測できたが、後でそれが「It's gonna happen!」の誤訳だと知ったときには「なんでそーなるの」とさらにびっくり。さらに、それがグーグルの翻訳サービスによる誤訳の結果だと知ってますます

    「偶然だぞ」でちょっと遊んだ - 横浜逍遙亭
  • ブログを書いていると文章が下手になる - 横浜逍遙亭

    一般論としてではなく、私のような書き方をしていると、という話ですが、ブログを始めて文章が荒れたなあと実感するところがあります。 その理由は、 ・書き殴る:短い時間にぱぱっと。その癖が付くと気持ちの中に「文章はじっくり推敲して書くもの」という意識が薄れてくる。 ・書き殴る:短い時間にぱぱっと。何かを書こうとパソコンに向かってからテーマやトピックを考えることしばしば。書きたいことがなくても惰性で書く。 ・書き殴る:短い時間にぱぱっと。推敲しない。→ 漢字の間違い、てにをはの間違い頻出。 ・書き殴る:起承転結、それに類する文章の構造を意識しなくなってきた。これは公の文章か、それともプライベートなメモか、日記か。 ・書き殴る:書かなくてよいことを書く。「書かなくてよいことって何だ」ということも、「書かなければならないことは何だ」ということもあまり考えない。これを書き殴ると言わずして何と呼びましょう

    ブログを書いていると文章が下手になる - 横浜逍遙亭
  • 山には死の臭いが立ちこめている - 横浜逍遙亭

    おそらく敏感な臭覚を持っている人なら、容易にそれを嗅ぎ取るにちがいない。登山客が押し寄せる山には死の臭いが立ちこめている。一昨日、中高年登山者の事故に出会ったと書いた丹沢・大倉尾根は普通の登山客が日帰りで上り下りする場所で、決して危ないところではないのだが、それでも事故は起こる。一昨日出会った方も、まさか自分があんな場所で命の危険に遭遇するとは夢にも思っていなかったはずだが、体力や判断力を問われる山という空間、あるいは山登りという行為は、ときに取り返しのつかない気づきを人に与える装置になる。 僕のようにたまにしか登らない者でも事故に出会う機会は少なくないのだから、日中の山でどれほど多くの事故が起こっているのか推して知るべしだと思う。個人的にも思い出す出来事がいくつかある。 高校2年生のときに山岳部の夏の合宿で飯豊連峰を一週間かけて歩いた。福島、山形、新潟の三県にまたがる飯豊は、標高は2千

    山には死の臭いが立ちこめている - 横浜逍遙亭
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