宮沢賢治、地図の裏に未発表詩 三十数年ぶりの新作2009年4月8日 今もファンの多い詩人・作家宮沢賢治(1896〜1933)が書いた未発表詩の草稿が見つかった。賢治の作品はこれまでの研究・調査でほぼ出尽くしたとされており、新たな詩が発見されたのは三十数年ぶりという。 昨年、岩手県花巻市にある賢治の生家の蔵を解体しようとした際に、はりの上に置かれていた書類の中から見つかった。5万分の1地図の裏面に鉛筆で書かれていた。筑摩書房から刊行中の賢治の全集の編纂(へんさん)委員が確認したところ、未発表の草稿と判明した。 〈停車場の向ふに河原があって〉に始まる16行の詩で〈停車場の前にがたびしの自働車が三台も居て/運転手たちは日に照らされて/…ここから横沢へかけて/傾配つきの九十度近いカーブも切り/径一尺の赤い巨礫(きょれき)の道路も飛ぶ/そのすさまじい自働車なのだ〉といった明るい光景を描いている。 全
(この記事18禁) 可愛らしいものを愛でるとき、「食べてしまいたい」と形容することがある。あるいは、激しくシた後、相手から「喰われるかと思った」と言われることがある(本来は逆なのだが)。 いずれも比喩だが、実践する人はまれ。 仮にやっちゃう人がいるなら、その人がどう狂っているのか(あるいは切実なのか)が、「幼児狩り」で見える。いや、喰いはしない。あくまで女の妄想+比喩的な書き方で示されるだけで、実行には至らない。 それでも彼女の昂ぶりは痛いほど伝わってくる。幼い少年に夢中になる三十路女の気持ちが。「理解できる」「共感できる」には到底ならないが、一読すると、まるで彼女のようにせっぱ詰まって稚き少年を「喰ってしまいたい」気持ちに同化できる。少年の手にあるスイカにかぶりつくシーンはものすごく比喩的。喉が渇いてくること請合う。 愛しいものを「食べてしまいたい」衝動は誰しも持っている。愛しい恋人・妻
「エルサレム賞」受賞式に出席する村上春樹氏=ロイター 【エルサレム=平田篤央】イスラエル最高の文学賞、エルサレム賞が15日、作家の村上春樹さん(60)に贈られた。エルサレム市で開かれた授賞式の記念講演で、村上さんはイスラエルによるパレスチナ自治区ガザへの攻撃に触れ、人間を壊れやすい卵に例えたうえで「私は卵の側に立つ」と述べ、軍事力に訴えるやり方を批判した。 ガザ攻撃では1300人以上が死亡し、大半が一般市民で、子どもや女性も多かった。このため日本国内で市民団体などが「イスラエルの政策を擁護することになる」として賞の返上を求めていた。 村上さんは、授賞式への出席について迷ったと述べ、エルサレムに来たのは「メッセージを伝えるためだ」と説明。体制を壁に、個人を卵に例えて、「高い壁に挟まれ、壁にぶつかって壊れる卵」を思い浮かべた時、「どんなに壁が正しく、どんなに卵が間違っていても、私は卵の側
安部公房の手紙発見 埴谷雄高に「相変らず金缺病」2009年1月18日 十七回忌を22日に迎える作家、安部公房(1924〜93)の文壇デビューの頃の書簡が見つかった。作家の埴谷雄高(はにや・ゆたか、1909〜97)に、自作を売り込んだり、もらった靴の礼を述べたりしている。のちにノーベル賞候補といわれる天才作家の若き時代の貧乏生活と、それを陰で温かく支えた先輩作家との交流を伝える資料だ。 埴谷の関係者から神奈川近代文学館(横浜市)に寄贈された資料にあった。「安部公房全集」(新潮社)の3月刊行予定の最終巻で初めて活字化される。 埴谷あての書簡は計19通。第1信(47年)は封書で、原稿用紙2枚にマス目よりやや小さな文字で丁寧につづっている。 埴谷と知り合いだった高校の恩師が書いた紹介状を同封し、埴谷に会いに行ったが会えなかった旨を記し、「出直ほしてお伺ひするのが礼とは思ひましたが、いさ々か金に窮し
水村美苗さんの話題作『日本語が亡びるとき-英語の世紀の中で』を鹿児島への機内で読了。 まことに肺腑を抉られるような慨世の書である。 『街場の教育論』で論じた日本語教育についての考えと通じるところもあり、また今書いている『日本辺境論』の骨格である、日本はユーラシア大陸の辺境という地政学的に特権的な状況ゆえに「政治的・文化的鎖国」を享受しえた(これは慶賀すべきことである)という考え方にも深いところでは通じているように思う。 とりわけ、「あらまあ」と感動したのは、「アメリカの植民地になった日本」についての考察である。 明治維新のときに欧米帝国主義国家がクリミア戦争や南北戦争や普仏戦争で疲弊していなければ日本は欧米の植民地になっていただろうということを言うひとは少なくないが、「植民地になって150年後の日本」についてまで SF 的想像をめぐらせた人は水村さんをもって嚆矢とするのではないか。 「たと
株式会社ビジュアルワークスが「10代の小説に関する意識調査」を行ったところ、9割近い10代の女性が「ケータイ小説」を書いており、好きな小説ジャンルは「ファンタジー」だったそうです。 また、「ライトノベルを読んだことがある」ユーザーは全体の73.9%、「好きな作家名を教えてください」との問いでは「乙一」「時雨沢恵一」「西尾維新」など若年層に圧倒的な人気の作家が挙げられたとのこと。 本当なのでしょうか?「ケータイ小説」普及率の実態は以下から。 10代966人を対象に小説に関する意識調査を実施 9割近い10代の女性が「ケータイ小説を書いている」 好きな小説ジャンルは「ファンタジー」 このウェブアンケートは「フォレストページ」という携帯電話向け無料ホームページ作成サービスで行われたとのことなので、ケータイ小説が好きな人が多いのはある意味当然で、さらによく見ると回答を行った966人のうち「女性:93
平野啓一郎氏が長編『決壊』 ネット社会の暴力追求2008年7月5日「ドストエフスキーが注目されているのも、登場人物が互いに分かり合えない他者であることが現代に通じるからでは」と語る平野啓一郎氏=東京都新宿区矢来町、林正樹撮影 作家デビューから10年を迎えた平野啓一郎氏が連続殺人事件を扱う長編『決壊』(新潮社)を発表した。ネット社会の危うさやコミュニケーションの新たなパラダイムをあぶり出し、現代における罪と罰の問題をも射程に入れた力作だ。 ネットが事件の発端となる。山口県に住む会社員がブログ日記に胸の内を記し、それを発見した妻が偽名で書き込みを始める。一方、同級生の裸の写真をネット上にばらまいた鳥取の少年は報復を受けて不登校となり、「孤独な殺人者の夢想」という自分のブログに書き込みを続ける。「悪魔」と名乗る男が二人を結びつけ、少年と共に会社員を京都で殺害……。人間の多面性や認識のズレ、悪意を
生きてるものはいないのか? いるのか? そう問いかけるものは生きているはずだから、生きてるものはいるのだ。しかし、生きてるという状態は、死につづけている状態であるのだと思う。 人は、いや生物は生まれながらに死につづけている。行き着く先は死である。 僕たちは生まれながら何かを──寿命といっても良いしもっと簡潔に命といっても良いかもしれない──を、少しずつ消費していっているはずだ。だけど、僕たちにその実感はなく、どちらかというと何かを、積み上げていっているような実感を持っている。だから生きられるのだ、と思う。その錯覚といおうか、思い込みといおうかがあるからこそ、僕は生きていける気がする。 その力、即ち、そう錯覚させる何か、に生きるということの神秘の答があるように思う。 いや本当は、生きるってことに神秘など無い。 僕らの生は本当はのっぺりしていて、陰影も無く、絶望的に平坦であるのだと思う。僕らは
男も慕う「乙女ブーム」の祖 少女小説で知られる作家・吉屋信子(1896〜1973)の全貌(ぜんぼう)を伝える過去最大の回顧展が、横浜市の神奈川近代文学館で開かれている。林芙美子と並び称された女流作家、フェミニズム作家という従来の見方のほか、近年はいわゆる「乙女ブーム」の祖として、サブカルチャー的にも再評価の声が高い。その旗振り役は、意外にも男性たちである。 「吉屋信子がいなかったら、ナナの隣にハチはいなかったんですよ」 作家の嶽本(たけもと)野ばら氏は、3日に同文学館で行われた講演でこう語った。ナナとハチとは、絶大な人気を誇る少女漫画『NANA』(矢沢あい著、集英社)の2人のヒロインのこと。外見も性格も対照的な2人の恋愛模様を描くこの漫画は、それ以上に2人の「友情以上、恋愛未満のプラトニックな感情」が焦点になっている。こうした関係は少女漫画ではおなじみだが、ルーツをたどれば、吉屋信子が20
「自然(しぜん)」という言葉を、私たちは、 当たり前のように使っているが、 この言葉は、本来、日本語にはなく、 近代になって、英語の「ネイチャー」の訳語として、 仏教用語だった「自然(じねん)」を当てはめ、 「自然(しぜん)」と読むようになったもので、 「自然(じねん)」と「自然(しぜん)」では、 その意味が違うことを、 鈴木大拙が指摘している。 ただし、吉本発言における「自然」は、 そうしたことを踏まえたものではなく、 たんに後者のことを語っているようだ。 こうしたことを確認したうえで、 吉本隆明による若い世代の 詩への批判を読み返してみると、 いささか、首をかしげざるをえない。 なぜ、詩に自然がなければならないのか? そして、本当に「新しい詩人」を始めとする 若い世代の詩には、自然がないのか? この2点を厳密に検討してみるならば、 ともに答えは、吉本隆明氏の考えるところとは、 正反対で
北川透氏は、ある対談で、 「今、吉本隆明が若い人たちに読まれている」と語ったことがあるが、ここで言うところの「若い」が、北川氏よりは「若い」という意味で、 50代、60代の団塊の世代以上の高齢者を意味しているのであれば、この発言は事実を語ったものということになるし、 社会的に「若い」、20~30代を意味しているとしたら、たんに「真っ赤な嘘」というものである。 吉本隆明は、バブル期に、かつての左翼活動が目指していた平等な社会の実現を、高度資本主義が実現したと語った。 たしかに、「一億総中流」とまで言われた、経済的な活況のなかでは、吉本氏の語るところは納得ができるものであったが、 そして、吉本隆明氏は、そうした今日的な問題には、何らかの視座を示したことはないので、若い世代が、吉本隆明に関心を持たないのも当たり前かも知れない。 たしかに、吉本隆明は偉大な思想家だが、それは、あくまでも、昭和の思想
「新しい詩人」(思潮社)が刊行されて、 00年代の新世代が、その輪郭を明らかにしつつあるが、 一方、年配の詩人たちを中心に、批判の声も少なくない。 戦後のベビーブーマー世代の特徴を 「飼い慣らされた羊たち」と指摘し、 「団塊の世代」と名づけたのは、堺屋太一だが、 もっぱら保身に必死な 団塊の世代の発言のあらかたは、 真に受ける必要はないとはいえ、 やはり、吉本隆明による、 若い詩人の詩には、自然がない、 その作品は無だという苛烈な批判は、 波紋を呼ぶことになった。 この批判に対して、森川雅美編集による 詩誌「あんど」8号は、さっそく、 特集「新しさを超えて」を組んだが、 及川俊哉編集による「ウルトラ」次号も、 吉本発言に応える特集を企画しているという。 若い世代から、どんな反応があるのか楽しみだが、 一方、「あんど」で井川博年氏が語っているように、 「だいたい今の若者は吉本なんか読んでない
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