・影崎由那「碧海のAiON」 ・原作:あかほりさとる、作画:大朋めがね「セイバーマリオネットi 〜ネオジェネ〜」 ・長蔵ヒロコ「伝説の勇者の伝説」
映画, 攻殻機動隊, マンガ | 『攻殻機動隊』 士郎正宗『攻殻機動隊』P127 講談社↑『イノセンス』の下敷きとなったエピソード、「ROBOT RONDO」から。トグサは利き手である右手で拳銃を持ち、トグサから見て右にある建造物に体を隠して威嚇射撃しています。今、気づいたんですが、足元を敵の弾がかすめてますね。ちなみに拳銃はマテバではありません。余談ですが原作のトグサは「俺はM2007(マテバ)が好きなの!」と言及はしたけれど、素子にとがめられたために実際にマテバを使用したことはないはず。たぶんですが。 同上 ↑前から見たところ。右手で銃を持っているのに、右側の遮蔽物に頼るのは、やっぱり撃ちづらそうですね。とはいえちょっと格好いい。香港映画の横撃ちや2丁拳銃のクロス撃ちとおなじで、撃ちづらそうに撃つのは格好いい気がする。 (追記:右手側に遮蔽物があって右手で銃をかまえるバトーの原作の描写
高いビルから飛び降りたら、あなたは死にますか? そりゃあ死にますよね。だってにんげんだもの(みつを)。 ではアニメやマンガの住人はどうでしょう? 現実と同じく死んでしまうお話もあれば、地面に人型に穴があいてギャグになって終わり、というのもありますね。 その違いって一体なんなの? というようなお話。 こういった作品ごとに違うリアリティに対して、押井守は、 「作品のリアリティは、監督によってコントロールされるべきものだ」 とインタビューで話しておりました。 (出典はアニメスタイル2号の押井守インタビューですが、部屋のどこにあるのか見つからないので大意です) ここでのリアリティとは、出てくるキャラクターや背景が写実的なのか、という画だけの問題でなく、演出などを含めた作品全体で表現されるリアリティをさします。 つまり高いビルから飛び降りたときに、キャラクターが死んでしまう作品なのか、ギャグで済む作
「順位をつけない徒競走」について。 1)そういう「平等」主義の運動会が小学校で行われているという話が流布されていますが、具体的にどこそこ小学校で行われているといった実際の例はあるでしょうか?「うちの子はそうだ」という体験談でもかまいません。 2)順位をつけない徒競走のような「平等」主義の人たちは、高校野球やオリンピックで負けた人は可哀想だから順位をつけるなとか言わないのですか?
コンピュータにおける二千年問題は既に過去のものとなった感があるが、日本語テキストにおける特有の問題『二・ニ問題』(と私が勝手に呼んでいる)は、その多くが未解決のまま残されている。 と書き出してみたものの、本題に入る前に『二・ニ問題』とは何かを説明すればなるまい。ちょっと古いが某所にあった長野冬季五輪の記事を例を挙げて見てみよう。 ノルディック複合(白馬村)は個人が十三、十四日。前回より一人多い四人ずつで競う団体は十九、ニ十日の予定。後半距離のリレーが一人5キロのスプリントになる。 お分かりだろうか。上記の「ニ十日」の「ニ」は漢数字の二ではなく、片仮名のニになっているのだ。 この現象は勿論、漢字の「二」と片仮名の「ニ」が同音かつほぼ同形ということから起こり得る現象だ。上記の文章では、おそらく「二十」という語句を記述するために「にじゅう」と入力し、変換キーを押したところ、「に/じゅう」と文節が
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く