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ブックマーク / nagaichi.hatenablog.com (32)

  • 『晋書』にやたらと「乞活」が現れる話 - 枕流亭ブログ

    「乞活」とは、素直に解釈すると「活きるを乞う」、つまりは「生存を願いもとめる」ということになる。しかし罪人が命乞いをするというようなニュアンスではほとんど使われず、飢饉などでい詰めた人々が糧のある土地に移動する行為を指すことが多い。あるいはを求める流民集団そのものを指す。今回はこの「乞活」の語が『晋書』にやたらと出てくるというお話。中国史上でも混乱した時代には流民集団が登場することは珍しくなく、とくに晋代に流民が多かったというわけでもないだろう。「乞活」という言葉が、「流民」に代わる晋代の流行語だったものと思われる。漢籍電子文献の二十四史で「流民」の語を検索すると、『晋書』だけ綺麗に抜けているのが面白い。 以下の引用はすべて『晋書』からである。 巻5帝紀第5 「(永嘉3年冬11月)乞活の帥の李惲・薄盛らが衆を率いて京師を救援すると、劉聡は敗走した。李惲らはまた王弥を新汲で破った。」

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  • チンギスはどこの人? - 枕流亭ブログ

    はてなブックマーク - ZAKZAK:「チンギス・ハン」はどこの人? 韓中蒙で大論争 オンラインゲームめぐり、三つ巴の“国際問題”に発展 元記事からしてB級ニュースだが、しかしみんな「義経=ジンギスカン説」好きすぎ。「チンギスはんは京都出身」もいいなあ(萌w さておきコメントした。 nagaichi ゲーム, 歴史認識 モンゴル国のモンゴル人より中国の内モンゴル自治区のモンゴル族のほうが人口が多かったりするわけで、かれらを「中国人」とする以上、中国政治的にモンゴル史を自国史に組み入れざるをえない。善し悪しは別に。 最初書いた文はひどかったんだけど、推敲したらなんとかまとまった。チンギスの子孫やモンゴル系遊牧民の子孫はユーラシアに広く散らばっていて、俺の先祖はチンギスだと思っている人は結構多い。それはあまり軽く笑いのめすこともできない。 チンギスの生地はオノン河畔なので、現モンゴル国に違い

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  • 兵馬俑が秦の宣太后の副葬坑という説 - 枕流亭ブログ

    兵馬俑 定説巡り論争「始皇帝と無関係」研究者提起(朝日) 魚拓/ブクマ 中国を代表する歴史遺産、兵馬俑(へいばよう)坑が来年、発見から35周年を迎える。秦の始皇帝の副葬品というのが定説だが、「別の人物のものだ」とする研究者の主張が注目され、論争が広がっている。 定説に異議を唱えるのは江蘇省政府の元職員で、独自に始皇帝陵や兵馬俑を研究する建築学者、陳景元氏(70)。定説に65の疑問を提起したを香港で出版し、中国中央テレビなどが取り上げて話題となった。 兵馬俑好きにはたまらない面白い記事が出ましたよ。さあてツッコミ開始。 陳氏はまず、始皇帝陵の東約1.5キロに位置する兵馬俑坑は、副葬坑としては遠すぎると指摘する。 1.5キロって言われるとあれだけど、そんなに遠くないでしょ。 鶴間和幸『始皇帝陵と兵馬俑』(講談社学術文庫)P14の図。 また、出土した武器のほとんどが青銅製。中国では紀元前5〜3

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  • 後漢のキセル - 枕流亭ブログ

    1900年前に喫煙・飲酒の習慣!古墳からキセルや酒盃―湖北省十堰県(レコードチャイナ) 2008年10月19日、湖北省十堰県で湖北省考古研究所のメンバーらが東漢時代の古墳を発掘、中から酒盃やキセルが出土した。 (中略) これにより、1900年前には喫煙や飲酒の習慣があったことが明らかにされた。これまで、中国に喫煙の習慣が伝来したのは16世紀後半から17世紀初頭にかけての明代と推定されてきたが、これまでの定説が覆る可能性がある。 酒器は殷代からありますから、とくに驚く話でもないですが、キセルは驚きですね。まずタバコは新大陸伝来のはずですから、事実関係が報道のとおりとするなら、 1.後漢の人がタバコをキセルで吸っていた! 2.後漢の人がタバコでないなにかをキセルで吸っていた! 3.キセルに見えるけど、実は用法の異なるなにか 4.晋の周処の墓のアルミニウムみたいに後世の混入とか 5.年代鑑定の誤

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  • 丕緒の鳥 - 枕流亭ブログ

    十二国記:6年半ぶり新作「丕緒の鳥」発表 小野不由美の傑作ファンタジー(毎日) 変わった題名だから語義を調べたくなる人はやっぱりおられるみたいですね。 十二国記の新作が!(ドイツ語、イタリア語と両想いになりたい!) 丕緒という言葉の意味について、辞書をひいてみました。 漢和辞典には「丕緒=丕績」とあって、「じゃあ丕績とは?」ということでさらに見ると、 「大きな功績。大きな手柄」 とありました。 少し補足をば。 詞語“丕緒”的解釈(漢典) 指国家大业。《陈书·世祖纪》:“朕以寡昧,嗣膺丕绪,永言勋烈,思弘典训。” 唐 皮日休 《悼贾》:“嗟大汉之丕绪兮,虯其贤於污潢。” 宋 苏辙 《拟殿试策题》之一:“朕奉承祖宗丕绪,上观三王,下览 汉 唐 ,考其为治之实。” 清 龙启瑞 《读曹参传书后》:“﹝ 曹参 ﹞佐少主光显 高皇 之丕绪,而措天下於磐石之安,其功烈岂仅与刀笔吏比长而已耶!” 「丕緒」

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  • 庭にお星さまが落ちてきて死亡。 - 枕流亭ブログ

    自分で書いたWikipedia記事を自分のブログでネタにするというのも、非常にマッチポンプくさい気がしないでもないのですが。 Wikipediaの趙思温の項。 趙思温(ちょう しおん、生年不詳 - 939年)は、遼(契丹)の軍人・政治家。字は文美。盧龍軍の人。 (中略) 939年、庭に隕石が落ちて、亡くなった。 (後略) 問題の原文は、『遼史』巻76列伝第6にあります。 二年,有星隕于庭,卒。 庭を「にわ」と取るか、「宮廷」と取るか。 星と書いてあるんだから、「隕石」より「流れ星」と訳したほうがいいかもしれないとか。 細かい点ではいろいろあるのですが、「二年、星があって庭に落ちて、死去した」という雑把な解釈はたぶん間違ってないと思います。 趙思温の死因:お星さま直撃によるショック死? 追記:検索してみたところ、 『宋史』巻400列伝159の王信伝で「有星隕于其居,光如炬,不及地數尺而散。數

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    kanototori
    kanototori 2008/06/22
    (´・ω・)
  • 西域三十六国 - 枕流亭ブログ

    意外に日語のデータがないので、置いておく。 百度百科参照。 烏孫国:現在の新疆ウイグル自治区伊犁カザフ自治州伊寧市、チャプチャル・シボ自治県附近の数県および現在のカザフスタンの一部。 亀茲国:現在の新疆ウイグル自治区アクス地区クチャ県、拜城県の一帯。 焉耆国:現在の新疆ウイグル自治区バインゴリン・モンゴル自治州焉耆回族自治県。 于闐国:現在の新疆ウイグル自治区ホータン地区ホータン市の一帯。 若羌国:現在の新疆ウイグル自治区バインゴリン・モンゴル自治州若羌県の東南。ロプノール西北の一帯にあった。 楼蘭国:現在の新疆ウイグル自治区バインゴリン・モンゴル自治州境内のロプ砂漠の中にあり、のちに国名を改めて鄯善とした(現在のトルファン地区の鄯善県とは別である)。現在わずかに楼蘭遺跡が残る。 且末国:現在の新疆ウイグル自治区バインゴリン・モンゴル自治州且末県の西南にあり、玄奘が取経の旅の途中でここを

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  • 西夏文字のアクチュアリティー - 枕流亭ブログ

    西夏文字の将棋の駒(むとうすブログ) 連想されるのは鬼将会への入り口ではなく、http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/14/6f/834908474d79a01474de2ba25bb352e3.jpg(碑文の間 〜精霊の守り人・ヨゴ文字解読プロジェクト〜) であった。 そう西夏文字は断絶などしていない。形を変えて現代に生き続けているのだ…。 とか言ってみて、西田龍雄『アジア古代文字の解読』(中公文庫)をもう何年も積ん読にしている自分に気づくのであった。

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  • チベット三題 - 枕流亭ブログ

    この時期だからあえて言おう的な三題。 1.今回のチベットの「暴動」事件は、中国(&インド)当局の独立派デモへの弾圧とそれに対する反発として現れたという一面と、青蔵鉄道開通以降の乱開発・環境破壊・貧富格差の拡大に対する反発として現れたという一面がある。中国当局の弾圧ひどすgrという面と、チベットもグローバリズムに飲みこまれているという面を見ていかないといけない。 漢族とチベット族の対立として煽るのは危険だし、実際に民族対立として深刻化すると解決の道筋がますます困難になる。 2.心情的には僕はチベットの人々の自決権を支持したい。チベット「独立」にしろ、「高度な自治」にしろ、現行の力関係的には実現が難しいが、仮に実現したとしてもそれは「はじまりの終わり」に過ぎない。むしろはじまってからのほうが大変なのだ。チベットはインドも中国も敵に回して自立できるような地政学的位置にはない。だからダライ・ラマは

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  • 始皇帝の称帝年代が早まったとかなんとか - 枕流亭ブログ

    秦代の銅勺は実に珍しい 六国を統一する前に秦王はすでに皇帝を称していた(新華網) 日語訳してみようと思ったけど、途中で面倒くさくなり、投げた。お見苦しいかぎり。 ちなみに秦王二十六年=始皇二十六年は西暦の紀元前221年。二十三年は紀元前224年。単に始皇帝の称帝年代だけの問題だけでなく、秦の三十六郡問題や度量衡問題も含んでいるニュース。正直いまのところ、こういうこと言ってる学者がいるよくらいで認知しといたほうが良さそうな気がする。くだんの銅勺の来歴がどうもはっきりしないし。 秦王二十六年、六国は統一され、天下が三十六郡に分けられて、号して皇帝となり、あわせて度量衡が統一されたことは、世人のみな知るところである。昨日(17日)、記者が南京博物院の江蘇省で唯一の国家級青銅器考古鑑定専門家である王金潮から知りえたところによると、少し前にひとりの個人収集家が地方からやってきて、かれにとても精巧で

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    kanototori
    kanototori 2008/03/26
    さじはまじか
  • 冉閔の子孫 - 枕流亭ブログ

    「染華墓誌」−羅新・葉煒『新出魏晋南北朝墓誌疏証』(中華書局)P124〜より、テキトーに抄訳。 惟れ大魏孝昌二年歳次丙午十一月丙申朔十四日己酉・故鎮遠将軍射声校尉染府君の墓誌 君は諱を華といい、字を進楽といい、魏郡内黄の人である。その先は帝嚳の苗裔であり、周の文王の少子の冉季の後である。高祖の閔は、趙の武帝(石虎)の初め、西華王に封ぜられ、侍中・使持節・都督中外諸軍事・黄鉞大将軍・録尚書事・武信王となった。趙の国祚が既に微(おとろ)えると、遂に帝位に升り、号して魏天王といった。群臣は皇図に依り、奏して族を改め、因って氏に即いた。崩ずると、諡を平帝といった。曾祖の叡は、燕に仕えて散騎常侍・海冥県侯となった。祖の興は、太武皇帝の聖世に安遠将軍・殿中給事・蒲陰伯となった。崩ずると、輔国将軍・洛州刺史を贈られ、諡を恵侯といった。父の雅は、孝文皇帝の聖世に輦曹給事となり、使持節・征虜将軍・懐州刺史・

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  • 機械的な漢字→平仮名変換の難 - 枕流亭ブログ

    せんみかど(のちやな) 以下、引用は邪魔な米印除去しました。 せんみかど(せんてい、519ねん - 562ねん、ざいい555ねん-562ねん)は、ちゅうごくのなんぼくちょうじだいのごやなのしょだいこうてい。せいは蕭、めいは勝・Aあざなはいまご、びょうごうはちゅうむね。なお、いかのぶんしょうでは蕭勝・ニしるす。 もとはWikipediaの宣帝 (後梁)の記事ですね。 まだまだこういう機械的な変換は難しいものです。同じ日語ですらこうなんですから、文法の異なる言語間とかになると、もっとひどいことになります。 しかし「後梁」が「のちやな」「ごやな」と2種類に変換されてるのも不思議です。 キッズgooのルビも以前酷かったですが、こういう機械的に漢字を平仮名に変換するサイトって、子どもやあるいは日語学習者にとって当に利益あるのでしょうか?むしろ害毒を撒き散らしているようにさえ思えるんですけど。

    機械的な漢字→平仮名変換の難 - 枕流亭ブログ
    kanototori
    kanototori 2008/01/06
    「いまご」?と確認したら「李孫」といったふうに