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ブックマーク / nagaichi.hatenablog.com (32)

  • 始皇帝がらみの新史料らしい『趙正書』について - 枕流亭ブログ

    北京大学蔵西漢竹書(北大漢簡)のひとつ『趙正書』を訳してみました。ネットに落ちてたものをテキトーに直しただけなので、正確さは全く保証しません。 むかし秦王趙正が天下に出遊し、帰る途中に白人(柏人)にいたって病にかかった。〔趙正の〕病は重く、涙を流して長い溜息を漏らし、「天命は変えることができないのか。わたしはかつてこのような病にかかったことがなかったが、悲…〈不明〉…」と側近たちに言った。…〈不明〉…これに告げて、「わたしは自ら天命を視て、年五十歳で死ぬと〔占ったことがあった〕。わたしは去る年十四で〔秦王に〕即位し、三十七歳で〔皇帝に〕即位した。わたしはいま死ぬべき年に達していたが、その月日を知らなかった。そのため天下に出遊し、気を変化させて天命を変えようとしていたのだが、できなかったか。いま病は重く、死も近い。急いで日夜に行列を運び、白泉に到着するまでは、振り返ってはいけない。つつしんで

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  • 煬帝改葬が貞観九年との説 - 枕流亭ブログ

    煬帝の墓、太宗が改葬 権力安定後に評価修正か(朝日新聞デジタル) http://digital.asahi.com/articles/DA3S11181055.html 煬帝墓誌について、明治大学の氣賀澤保規先生が新説を立てられているようです。 墓誌上の「貞観」の後に記された改葬年を示す文字について、中国側の研究者は「元年」と判読してきた。だが、気賀沢さんは、その後に続く日付を示す干支(えと)の分析から「九年」(635年)と推測。「太宗の即位から約10年たち、権力基盤が安定し、煬帝を悪者に仕立てる必要がなくなり、冷静に事績を評価した」とみる。 新聞記事は論文ではないので、肝腎なところは書いてくださらないわけですが、「貞觀□年」に続く部分に書かれている筈の「×月×日(干支)」がどうやら釈読できているらしいことが読み取れます。どう読んだものなのか、わたし気になります(CV:佐藤聡美)。 さて従

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  • 上官婉児墓誌 - 枕流亭ブログ

    昨年9月に出た唐の上官婉児の墓から出土した墓誌が『考古与文物』に公表されたらしいです。 http://sn.people.com.cn/n/2014/0108/c190230-20338075.html http://www.sxdaily.com.cn/n/2014/0108/c47-5325449-1.html 誌蓋は、「大唐故昭容上官氏銘」の9字です。 誌文は、32行982字だそうです。以下は例によってネットに落ちてたのを適当に加工したので、誤字ってたらゴメンナサイ。 大唐故婕妤上官氏墓誌銘并序 夫道之妙者乾坤得之而為形質氣之精者造化取之而為識用挻埴陶鑄合散信息 不可備之於人備之於人矣則光前絕后千載其一婕妤姓上官隴西上邽人也其先 高陽氏之后子為楚上官大夫因生得姓之相繼女為漢昭帝皇后富貴勲庸之不絕 曾祖弘隨籐王府記室參軍襄州總管府屬華州長史會稽郡贊持尚書比部郎中與 觳城公吐萬緒平江南授

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  • 李建成墓誌 - 枕流亭ブログ

    玄武門の変で唐の太宗(李世民)に殺害された李建成とその妃の鄭観音の墓誌が出ていたようです。密売されて闇ルートに流れていたとのことですが。 報道されている李建成墓誌の誌文は次のものです。 大唐故息隱王墓誌 王諱建成武德九年六 月四日薨於京師粵以 貞觀二年歲次戊子正 月已酉朔十三日辛酉 葬於雍州長安縣之高 陽原 李建成の諡の「隱」の字の部分は、石を削った後に字を改めて刻んだ痕跡があり、「戾」の諡を「隱」に改めた史実に対応している模様です。 http://news.china.com.cn/rollnews/ent/live/2013-12/18/content_23933851.htm http://www.sxdaily.com.cn/n/2013/0609/c327-5151522.html http://news.jcrb.com/jxsw/201307/t20130716_115810

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  • 馮季華墓誌について - 枕流亭ブログ

    馮季華墓誌は、北魏の正光五年(西暦524年)に作られた墓誌です。 1920年に洛陽城北の徐家溝村の東南で出土したもので、とくに新しいものではありませんが、今回取りあげてみることとします。 墓主は北魏の楽安王妃の地位にあった馮季華(?-524)という女性です。北魏の太師馮熙(?-495)の八女で、明元帝の玄孫にあたる楽安哀王元悦(476-511)の妃です。 馮季華の曾祖父は、北燕の昭成皇帝馮弘(墓誌中では「道鑒/燕昭文皇帝」)です。曾祖母は皇后慕容氏。 馮季華の祖父の馮朗は、北燕の広平公で、太平真君年間(440-451)に北魏に帰順し、使持節・征西大将軍・秦雍二州刺史に任じられ、西郡公(『魏書』皇后伝では西城郡公、外戚伝では遼西郡公)に封じられています。薨去すると、仮黄鉞・太宰の位を追贈され、爵位は燕宣王に進められています。文成帝の文明皇后馮氏(441-490)の父にあたります。 馮季華の父

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  • 隋の煬帝の墓が出土 - 枕流亭ブログ

    ご無沙汰ぶりのブログで、わりとビッグニュースの紹介です。隋の煬帝の墓が江蘇省揚州市邗江区西湖鎮司徒村曹荘で出土したとのことです。 ↑今回発見の墓 揚州市は長江下流域の北岸に位置している古くからの都市ですが、隋のころには江都と呼ばれていました。南朝の文化を愛した煬帝は、たびたびこの江都に来ておりまして、最期を迎えたのもここでのことです。煬帝は江都に宮殿を建てて趣味全開の遊興三昧。晩年に華北の情勢が怪しくなると、江都から離れようとせず、そのために部下の宇文化及に殺害されております。 さてこのたびの出土品ですが、鎏金銅鋪首や金瓖玉腰帯といった文物が出ているようですが、やはり決定的だったのは、墓誌の発見ですね。 「隨故煬帝墓誌」(隨は隋と通字)というようです。墓誌中に「隨大業十四年」とか「帝崩于揚州」とかあって、決め手になってるようです。 ↑鎏金銅鋪首 ↑発見された墓誌 あと今回発見の墓の東側の墓

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  • 1USERの声 - 枕流亭ブログ

    はてなブックマークのデザイン変更は、閲覧性から評判が悪かったりするのですが、新着の1USER・3USERS・5USERSの別が消えたことも、残念ですよね。 場末のはてなーには、1USERが貴重なんだよ。アムリ〜タ〜じゃなかった、アミ〜ゴ。

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    kanototori
    kanototori 2013/01/15
    タグクラウドが全部表示されてた頃が思い出される
  • 王羲之「大報帖」の話 - 枕流亭ブログ

    王羲之の書の写しが見つかったというニュースです。小野道風の書として知られていたものが、王羲之の模だと鑑定されたという話らしいです。 http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130108/k10014646631000.html http://mainichi.jp/feature/news/20130108ddm041040119000c.html 報道以上のことは分からないのですが、素人なりの疑問が浮かんだのでひとこと。日経と東京新聞の記事では、「王羲之の息子『期』」とか言っています。 http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG0800T_Y3A100C1CR0000/?dg=1 http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2013010802000227.html

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  • 中国史系図録の蒐集 - 枕流亭ブログ

    コレクションの楽しみの多少は、大人げなく見せびらかすことで出来ているというわけで、枕流亭亭主所蔵の中国史系図録のお蔵出しです。図録というのは一般書店にあまり置かれていませんし、博物館・美術館のミュージアム・ショップやら古書店やらを足で稼いで巡らないと、わりと集まらないものです。こうして並べてみると、中の人の意に反して、案外大したことがないと思われるのではないかという懸念が少々。なるべく魅力を感じていただけるよう努力したつもりですが…、さて。 1.『中国戦国時代の雄・中山王国文物展』 1981年に東京国立博物館でおこなわれた企画展の図録です。戦国七雄は知られていても、中山国となるとガクっと知名度が下がるのですが、当時は中山王墓が出土してわずか7年ばかりで日にやって来たようです。沖縄の中山国と混同されないよう、お題に苦労がしのばれます。カラー半分、モノクロ半分ですが、青銅器や漆塗り文物の精美

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    kanototori
    kanototori 2012/09/10
    至福のズッシリ感
  • まぼろしの「覇」王朝 - 枕流亭ブログ

    久しぶりにレコードチャイナが歴史記事でかっ飛ばしてくれたので、取りあげておこうと思います。記者の勘違いが大炸裂です。 レコードチャイナ:古代王朝「覇」の存在を証明!?大河口墓地で発掘の青銅器銘文に「覇」の文字を確認―山西省太原市 http://www.recordchina.co.jp/group.php?groupid=64327 31日、中国・山西省太原市の山西博物院で「山西省考古研究所60周年特別展」が開催され、同省翼城県の大河口墓地で発見された青銅器のひとつが初公開されたが、この青銅器はこれまでに確認されていなかった新たな古代国家「覇」の存在を示している。 2012年8月31日、中国・山西省太原市の山西博物院で「山西省考古研究所60周年特別展」が開催され、同省翼城県の大河口墓地で発見された青銅器のひとつが初公開されたが、この青銅器はこれまでに確認されていなかった新たな古代国家の存在

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  • 楚簡に『左伝』が - 枕流亭ブログ

    ここ数年は清華大学の楚簡がアツかったのですが、今年からは浙江大学の楚簡がアツくなりそうです。さて浙江大学蔵戦国楚簡は、2008年に香港の闇市場に出たものを、翌年に浙江大学OBの芸術基金会理事が中国に買い戻し、現在は浙江大学が所蔵しているという来歴の楚簡です。鑑定によると紀元前340年ごろのもの。くだんの楚簡は整理と釈文がおこなわれて、古書・日書・卜筮祭祷・遣册の四種に分類されているようですが、その中の古書に現行の『春秋左氏伝』の一部と同等のものがあったようです。「個別の字を除けば、楚簡の内容と現行の『左伝』の内容とは完全に一致している」とのこと。伝世史料としての『左伝』の信頼性を高めると同時に、現在通用の漢字と当時の楚字との比較も進みそうで、いろいろ期待できそうな発見ですね。 http://news.163.com/12/0425/10/7VU9F7MI00014AEE.html http

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  • 楚国の名称の由来 - 枕流亭ブログ

    武大教授羅運環:清華簡掲示楚国名称由来(荊楚網) http://news.cnhubei.com/hbrb/hbrbsglk/hbrb06/201203/t2006804.shtml このブログでも何回か取り上げてきた「清華大学蔵戦国竹簡」ですが、そのうちの一篇である「楚居」が楚国の名称の由来となるエピソードを記載しているそうです。 楚の先君穴熊(鬻熊)のの妣厲が子の麗季(熊麗)を産んだとき、難産のため「剖腹」(帝王切開)して麗季を産んだのですが、母の妣厲のほうは亡くなってしまいました。妣厲の死後に、巫師が荊条(いばらのひも)で遺体を包んで埋葬したそうです。この国母を記念して、後代の人が自らの国を「楚」(いばら)と呼んだとのこと。 もちろん戦国時代の楚にそういう伝説が残っていたということを示すだけで、そのとおりの故事が実際にあったことを保障するものではありません。古典で楚国のことを「荊」

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  • 蒼頭 - 枕流亭ブログ

    『史記』蘇秦列伝で蘇秦が魏の襄王に説いたことばに「蒼頭二十萬」の一節がある。『史記索隠』はここを「謂以青巾裹頭以異於衆、荀卿魏有蒼頭二十萬是也(青い頭巾を頭につけて多勢と異なるものをいう。荀子が『魏に蒼頭二十万あり』といったのがこれである)」と注釈している。 また『史記』項羽紀に「少年欲立嬰便為王、異軍蒼頭特起(若者たちは陳嬰を立てて王としようとし、別軍の蒼頭が特に起兵した)」といい、『史記集解』は応劭の言を引いて「蒼頭特起、言與眾異也。蒼頭、謂士卒皁巾,若赤眉青領、以相別也(蒼頭特起とは、多勢と異なることをいう。蒼頭とは兵士の黒っぽい頭巾のことをいい、赤眉や青領のように、格好を区別したものである)」と注釈している。 ところが、『後漢書』光武帝紀の建武五年の条に「彭寵為其蒼頭所殺、漁陽平(彭寵がその蒼頭に殺され、漁陽が平定された)」とあり、李賢注は「秦呼人為黔首、謂奴為蒼頭者、以別於良人

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  • 咸陽と長安を結ぶ橋 - 枕流亭ブログ

    『初学記』所引の『三輔舊事』にいう。「始皇帝即位,在渭南作長樂宮。橋通二宮。表河以為秦東門,表汧以為秦西門。」 『初学記』所引の『三輔舊事』にいう。「初,秦都渭北,渭南作長樂宮,橋通二宮間,表河以為秦東門,表汧以為秦西門。二門相去八百里。渭水貫都以象天河,橋横南渡以象牽牛。漢都渭南,開北闕以臨渭。渭北則陵廟所在。」 『北堂書鈔』所引の『三輔黄圖』にいう。「橋廣六丈,南北二百八十步,六十八間,八百五十柱,二百一十梁。」 秦の首都は渭水の北の「咸陽宮」であった。始皇帝のときに離宮として渭水の南に「興楽宮」(長楽宮)が築かれる。このふたつの宮殿のあいだには、渭水をまたぐ橋がかけられていた。この橋は「横橋」(石柱橋)といって幅が六丈、南北に二百八十歩(一説に三百八十歩)という巨大なものであり、前漢にも受け継がれて、丞令が置かれて管理された。秦の咸陽宮は項羽に焼かれ、漢の高祖劉邦は婁敬の説を採って、

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  • 『草原の風』 - 枕流亭ブログ

    宮城谷昌光『草原の風』(中央公論新社) 昨年末に全3巻で出た小説を読了しました。ようやく光武帝のオーソドックスな長編が出たなあという感慨があります。光武帝劉秀を扱ったものとしては、先行に塚青史氏の長編があるのですが、こちらは光武帝の面白エピソードの多くが端折られた無念の怪異作でした。宮城谷光武帝は『後漢書』をベースにしながら、宮城谷得意の上古の教養をひけらかしつつ、先行のハードルを越えたものと思ってよいでしょう。司馬亜流の宮城谷文体も健在ですね。 さて、『草原の風』という題から光武帝を連想することは困難かと思いますが、おそらく『後漢書』王霸伝の「光武、霸に謂いて曰く、『潁川、我に従いし者皆逝く。而して子独り留まる。努力せよ。疾風は勁草を知る』と。」から引いているものと思われます。作中それと知れるシーンは2、3カ所しかありませんが、光武帝の爽快さと芯の強さを印象づける良題です。 作を挙兵

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  • おもしろ耶律楚材論文 - 枕流亭ブログ

    CiNiiで公開されている論文、原田弘道「耶律楚材と萬松行秀」が面白すぎてツボにはまったのでご紹介。 http://ci.nii.ac.jp/naid/110007015003 まずは冒頭からかっとばしている。 父の予言通り金朝より元朝に仕え、世界に未だ曽て存在しなかった連邦共和国制による蒙古大帝国建設の礎を築くことになる。 耶律楚材(1244年死去)が生きていたころのモンゴル帝国を「元朝」(1271年〜)と呼ぶべきではないってのがまずあるが、そんなツッコミも些事に思えることがさらっと書いてある。モンゴル帝国が「連邦共和国制」ですと!連邦制というならまだしもだが、共和国がついているのがすごい。どこが共和国なのだろう?個人的にはモンゴル帝国の中小のウルスの群体構造は遊牧封建制と呼ぶべきではないかと考えているが、さておき論文というものは、術語の定義に厳密に気を遣うものではないのだろうか。 楚材

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    kanototori
    kanototori 2011/12/20
    なんとなく「東丹王」でCinii全文検索してたら目についたので
  • 曹操の墓キタ━━━━(゜∀゜)━━━━ッ!! - 枕流亭ブログ

    取り急ぎ中国広播網の記事貼っときます。 http://china.cnr.cn/gdgg/200912/t20091227_505814076.html http://www.cnr.cn/hnfw/xwzx/tp/200912/t20091227_505814281.html 河南省安陽県安豊郷西高穴村の西高穴村2号墓地。 「魏武王常所用格虎大戟」の石碑あり。 3体の遺体があり、1体は60数歳の男性、2体は女性で、20数歳と40数歳くらい。 墓道の長さ39.5メートル、幅9.8メートル。墓室の最深部は地表から15メートル。墓の平面はほぼ梯形で、東辺幅22メートル、西辺幅19.5メートル、東西長18米。面積740平方メートルあまり。 銅帯鈎、鉄甲、鉄剣、玉珠、水晶珠、瑪瑙珠、石亀、石壁、石枕、刻名石牌など出土器物は200点あまり。 ええと、いろいろこれからですが、第一印象をいうと、 薄葬じ

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    kanototori
    kanototori 2009/12/27
    「魏武王」
  • 中国皇帝たちの名称について - 枕流亭ブログ

    中国の歴代皇帝(教えて!goo) 基の基みたいなところなのですが、ぜんぜん良回答じゃなくて泣けます。いや腰がくだけます。おそらく質問者の意図は高校世界史のテスト対策だろうと思われるので、教科書に書かれてるとおりに覚えたら充分だよと答えりゃいいと思うのですが。回答者はいずれも知ったかぶりをしようとして、誤った知識を質問者に刷り込もうとしています。いや、知ったかぶりは俺も大好きですけどね。 まず回答No.1 基的には各王朝の初代皇帝は名(?)と諱名で覚えるのがいいでしょう。 ただここでいう初代皇帝は、三代前を初代とするという方式のではなく、実質的に中華王朝にした初代皇帝がいいでしょう 王朝+諱名という表示で覚えても基的には差し支えないと思います。 はい、ダウト。諱名(いみな)とは、姓名の「名」と同一のものです。 たとえば唐の太宗という人物を例に挙げた場合、姓は李、名(=諱)は世民、諡

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  • 7月5日のウルムチの事件を時系列でまとめてみる - 枕流亭ブログ

    6月16日、韶関家園網の「市民心声」に「旭日真垃圾」(旭日は当にゴミ)と題したスレッドを立てた朱XXというネット民がおり、広東省韶関市の旭日玩具工場内で「6人の新疆の男子が2人の無辜の少女を強姦した」というデマが流された。これが転載に転載を重ねられて、漢族労働者によるウイグル人労働者に対する敵意が高まっていった。 http://blog.goo.ne.jp/sinpenzakki/e/5680ab9140d3dc239299c72222b9c22f 6月26日、韶関市の旭日玩具工場内で数百人の群衆がウイグル人労働者を襲撃し、2人が死亡、118人が負傷した。 http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20090627-OYT1T00700.htm http://www.china-news.co.jp/society/2009/06/soc09062803.h

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  • 大秦王安敦の使者はエリュトゥラー海を越えてきたか。 - 枕流亭ブログ

    『後漢書』巻7孝桓帝紀 「大秦國王遣使奉獻。」 『後漢書』巻88西域伝 「至桓帝延熹九年、大秦王安敦遣使自日南徼外獻象牙・犀角・瑇瑁、始乃一通焉。其所表貢、並無珍異、疑傳者過焉。」 西暦166年、大秦王安敦が日南郡の境外から使者を派遣して象牙・犀角・玳瑁を献上して、はじめて通交したことが、『後漢書』にみえる。この大秦王安敦は通説ではローマ皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌスに比定されており、高校世界史の教科書にもみられる。 しかし献上品の象牙や犀の角や玳瑁(鼈甲)はローマの物産ではない。もとの『後漢書』からして「疑傳者過焉」(疑うらくは伝える者の過ちか)と言っている始末である。 ローマ人はセレス(中国)の存在を知っていたし、セレスの絹は実際にローマ人にも珍重された。しかし物のローマ皇帝の使者が洛陽にやってきたかどうかは極めて怪しい。 このあたりが妥当かもしれないし、東南アジアかインド

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