かつては人口が100人を越え、戦前はカツオ漁などにより他の島に比べ繁栄を誇っていたが、急峻な地形で大規模な築港ができないなどの理由から徐々に衰退。米軍統治下に入った戦後の一時期こそ活況を見せたが、それも長くは続かなかった。 やがて、島内で完結した自給自足の自然経済から貨幣経済への移行がせまられたこと、本土復帰を経て昭和30年代から昭和40年代の集団就職による人口減などの問題、さらに週1回の定期航路さえ大シケのために欠航が続き、しばしば飢饉騒ぎが起きたことなど、島での生活を維持していくことが困難になった。このため1970年(昭和45年)7月28日、全島民が鹿児島市などへの集団移住を選択した。なお、このころの人口は7世帯28人(1970年(昭和45年)1月調査時点)にまで減少しており、最後の日は4世帯16人であった。 移住後、略奪船により扉や窓を破壊され、更に台風被害なども重なったため、無人島
