我々が学校で習う「古事記」は漢字仮名交じり文で書かれている。だが、実際の古事記の原典は漢字仮名交じり文ではなく漢字文で表記されており、本書の議論はこの当然の事実に向き合うことを基盤としている。 では、漢字テキストの古事記と対面することによって何が見えてくるのであろうか? 第一に著者は、古事記が倭語を写し取ったものではなく、漢文訓読に端を発する人工的な文体であることを指摘する。但し、古事記の文体を巡っては、書道家の石川九楊氏もすでにこれを看破していることをここで付け加えておきたい。 第二に著者は、古事記の本文が漢文訓読体で書かれている一方で、古事記に収めれられている歌が音仮名で書かれおり、両者の差が古事記に複線的な記述をもたらしていることを指摘する。 本書の骨格をなす認識は、ある前提を受けて古事記という漢字テキストが生成されたということではなく、古事記という漢字テキストを書くことによって作り