本がみっつ この漢字は、筒井康隆の『本の森の狩人 (岩波新書)』で初めてみた。 讀賣新聞で連載してゐた時に、擔當者が「*1の狩人」と云ふタイトルをつけた。これで「本の森の狩人」と読ませるらしいと。 *1:今昔文字鏡だと屬性が國字になつてゐた。
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目黒区美術館区民ギャラリーにて。 元宮内廳書陵部の櫛笥節男氏による和裝製本の實演を見學する。「折本」と「袋綴」がどのやうに作られるかを眼の邊に出來るなんて滅多にない。二時間立ちずくめで疲れたけれど滿喫した。 宮内庁書陵部 書庫渉獵―書写と装訂 作者: 櫛笥節男出版社/メーカー: おうふう発売日: 2006/02メディア: 単行本 クリック: 2回この商品を含むブログ (2件) を見る 目打ちに對する指の添へ方や、刷毛で糊を塗る手捌き等を注視しながら、これは職人だなあと月竝みに感じてゐた。遣ひ込んだ道具(尺定規*1や數々の木片)も樂しい。机の上にあがつて裁包丁*2で紙を器用に切り始めたのには驚いた。 http://blogs.yahoo.co.jp/azusa12111/MYBLOG/yblog.html 實演の後、展示されてゐる澤山の本達を見る。幾つかの展示では、手袋をして實際に本に觸れら
今日一日歩き廻つて見掛けた文字を並べてみる。 「み」の字の形も氣になるのだが、最近は(特に書寫體の)文字の置かれ方も氣になる。 ラーメン屋で變體假名が遣はれてゐるのは珍しいかも。 これはやまかわと讀んでいゝのだらうか。 称名寺にて。篆書。 称名寺にて。鬼や卑で上の點がないのものは割とよくみる。
日曜に彼方此方廻る。幾ら時間がないからとはいへ、一日に四つも見て廻るものではない。 「抵抗と恭順―明末清初の書人たち」 書道博物館にて。丁度いゝくらゐの作品数なのでゆつくり見てゐられる。作品毎に的確なキャプションがつけられてゐて、見處がつかみやすい。例へば、扇面形式での文字の配置などは指摘されて成る程と思ふ。 書の名筆III『書のデザイン』 出光美術館にて。本阿弥光悦の「新古今和歌集散書屏風」がよかつた。また最近のもので、草野心平の詩を書いた青木香流の「ゆき」、森田安次の「風の又三郎」もとてもよかつた。音が聞こえてきさうな書だつた。 『諸橋轍次博士と大漢和辞典』展 表參道の新潟館ネスパスにて。新潟日報の記事や展示を見る。「諸橋轍次博士と大漢和辞典」と云ふビデオが上映されてゐた。この間讀んだ原田種成氏も登場してゐる。作成されたのは結構前だと思ふ。 http://www.nagamura.jp
「そんな言い方誰もしない」と言い張るお子様たち 茲で語られてゐる光景は、正字や正假名に對する世人の反應と變はらぬものがあると思ふのは、私の僻目か。 記事に對して自戒の反應が目に附くが、若し例へば、歴史的假名遣の正しさを示された時に、彼等がどのやうな反應をするかを私は想像する。あまつさへ、現代假名遣ひが間違ひであると云ふことも口にしたならば、一體どういふ事になるか。恐らく彼等は口を揃へてかう答へる。 「そんな書き方誰もしない」 衆寡敵せず。
上野毛の五島美術館へ行く。展示室が一室しかないからゆつくりと見られる。 禪の坊さんが書いた書を見て廻る。今日は大字の書に惹かれる。無準師範の額字や一休宗純の一行書などの書*1がよかつた。養叟宗頤*2の「鐵牛」もあつた。 今日一番好かつたのは、一山一寧の「應無所住而生其心」。應に住する所無うして、其の書が生ずるといつた趣きがある。 時間がなくて庭園を廻れなかつたのは殘念。 *1:七佛通誡(諸惡莫作・衆善奉行) *2:マンガの所爲であまりよい印象はないのだが書は惡くないと思ふ。 歸りしな野毛の大塚古墳に立ち寄る。この近邊は古墳が多い。 野毛大塚古墳 次は上つてみたい。 そして等々力不動尊にて參詣。茲の側ある等々力溪谷には痺れて了つた。東京で暮らしてゐると先づ溪谷なんてお目に掛かれないので、突如眼前に現れた光景を前に、まるで別の世界に紛れ込んだかのやうな錯覺を抱いた。いつになく昂奮して了ふ。 小
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