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感覚に関するkataのブックマーク (4)

  • 子どものフシギな「時間感覚」を考える

    時計を見て「7時だからポケモンだ!」と言う子も、なぜか夜中の1時に目覚ましをセットしたり……時計を読むことと、時間の感覚とは、また別モノのようです。 かなり語彙も増え、難しい言葉を操るようになっても、子どもにとってなかなか覚えにくいものに、「時間の感覚」がある。 まず幼児期には、未来のことはすべて「明日」、過去のことは数週間前であっても「さっき」「昨日」だったりと、ものすごくざっくりした分け方をすることが多い。 「寝た後=朝」という認識もあるようで、わが子などは、毎日保育園でお昼寝後にべるおやつのことを、「朝ご飯」と呼んでいた。どことなく気の毒な勘違いである。 小学校にあがったら変わるものかと思っていたが、ある程度時計を読めるようになってもあまり大差なく、つい先日も、「明日、亀の水をかえてって○○ちゃんに言われたよ」と小1の娘が言うので、「明日はお休みなのに来いってか!?」と戸惑っていた

    子どものフシギな「時間感覚」を考える
  • 哲学はなぜ間違うのか?: 速度ベクトルの積分→空間感覚

  • NetScience Interview Mail・ 泰羅雅登-7

    kata
    kata 2007/06/15
    「時間」と「空間」、その認知の関係
  • いや、そうではないと思うのだ - finalventの日記

    ⇒■[社会][メモ]とか言いながら、スグにまた脊髄反射的に 10 その場に立ちあわなければ、その出来事の事実を「知る」ことは出来ないし、その出来事を「知って」しまった人は、その出来事を「客観的、全体的、歴史的に把握する」ことは出来ないのではないかと思うのです。 ちょっと若い人に刺激的な言い方になるのだが、三十年から四十年くらい生きてみると、自分の人生というのが歴史のなかに埋め込まれている、ぅあっ、俺って歴史なんだという奇妙な感触が出てくる。簡単な部分では懐古だが。それは若い世代には伝えにくい時代感覚かもしれない。 そして、その自分が歴史である、そうか、人間が歴史なのか、というところから、人は人の体験に独自の内的な歴史の感覚から耳を澄まそうとするようになる。 このあたりがうまく言えないのだが、人の話を聞くというのがコミュニケーションとかいう次元だけではなくなるし、まして真偽だの善悪の判断では

    いや、そうではないと思うのだ - finalventの日記
    kata
    kata 2006/03/04
    「歴史を知るというのは、己が日本人であることを知らされ日本の歴史に刻まれていくことだ」
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