確率は人間が定義すること。確率的なことが述べられていたら何を見ようとしてその確率が定義されているのかに注意しないといけない。確率を定義したその人の意図が背後に必ずある。これを確率の主観性と考えよう。すると、そもそも確率が言われているときすべてに主観性があるということで、それ自体もう何も議論することはない。あるのは、主観的に定めた確率的構造を複数比較してみて比較するということで、そうしてはじめて相互主観的(=客観的)なコミュニケーションが成立する。 注意すべきは、この確率の主観性とベイズ統計学の入門的場面でよく言われる主観確率は別物であるということである。筆者も最初は混同してしまっていた。「頻度主義は客観確率で、ベイズ主義は主観確率を扱う」という対立図式が跋扈しているが、この図式を捨てて明瞭になった*1。ベイズ主義の主観確率はベイズ統計学を理解するのに必要ないと思う。ベイズ法に対する主観確率