「己みたような腰弁は殺されちゃ厭だが、伊藤さんみたような人は、哈爾賓へ行って殺される方がいいんだよ」「伊藤さんは殺されたから、歴史的に偉い人になれるのさ」−夏目漱石の小説「門」の宗助は、伊藤博文殺害の理由を詳しく語る代わりに、こんな風に妻お米に話す。「腰弁」(「腰弁当」の略、弁当を腰にぶら下げて出勤する安月給取りのこと)という平凡人としての自己確認は、伊藤殺害という歴史的事件から距離を置くことで成立している。「成効」という雑誌をすぐに伏せてしまう宗助は、もはや「成効(成功)」を夢見ることなく、わびしい平凡人として、暗い過去を隠し、世間から懸絶した夫婦生活と自我の内側へといっそう自ら閉じ塞いでいく。 宗助と同じく国内での「成効」コースから外れた者たちが新天地を求め大陸へと渡っていた時代、「朝鮮の統監府」の「立派な役人」となった息子の仕送りで「気楽に暮して行かれる」隠居夫婦の話が出てくる。穴の