人は、衣食住に困ることなく、何不自由なく暮らしていても自由を感じられないことがあります。 その原因の一つは、多くの人が役割という名の期待を背負って生きているからです。 男として、女として、親として、子として、孫として、兄として、妹として、会社員として、学生として、友人として、配偶者として、年上として、年下として、〇〇〇という名前を持った人間として……。 それは心地よく感じることもあれば、重荷になってしまうこともあります。 他人から押し付けられる期待は、コミュニケーションや距離感の取り方でかわすこともできますが、それよりも厄介なのは自分が自分に抱く期待です。 マインド※である自分が、様々な観念※から導き出した幸せの法則(と、思い込んでいるもの)を実現させるための期待。 例えば、「自分はお兄ちゃんだからこうしなければならないはずだ」「自分は店員だからこういう態度をしなければ」「自分はこのくらい
何かに挫折をしたり、うまくいかなかったり、または特別な出来事がなくても気分がしずみ、「前向きになろう」と思えば思うほど前向きになれないとき。 ただでさえ気持ちが落ちているのに前向きになれないことで、さらに自分を責めてしまうこともあります。 ところで、目指しているその方向は、はたして本当に「前」でしょうか。 それが「前」だと、なぜ思いましたか? それが「前」だと、誰が決めたのでしょうか?親が?友達が?世間が?それとも自分で? 物事を積極的で発展的に、ポジティブに受け止めて取り組んでいくことが「善」であるという思いこみが多くの人のマインド※の中にあります。 そのため、ポジティブな方向(前)を向けないことを「悪」と判断し、そんな自分に鞭打つ人もいます。 ですが、どこかの誰かが「前」と定義づけた方向を向くことができない自分がいるということは、その方向がそのときのあなたにとっての本当の「前」ではない
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