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  • 恐山あれこれ日記: 17年目の氷解

    17年目の氷解 このところ立て続けに、オウム真理教事件で長年指名手配された容疑者が捕まったり、捜索されたりという事態になっています。 実は、私はオウム事件に強いこだわりとトラウマを今に至るまで持ち続けてきました。それというのも、これまでまんざら自分がオウムと無縁ではなかったからです。 1984年といえば、私が出家した年ですが、オウム真理教の前身、「オウム神仙の会」が麻原によって設立されたのもこの年のはずです。 ですが、それ以前に、彼は宗教的な活動を始めていたはずで、私が後に思い出したは、千葉県の松戸で、ヨガグループのような活動をやっていたのが、当時の麻原ではないかということです。 私はまだ出家する前でしたが、千葉在住の友人に「変わったヤツが面白いことをやっている」と誘われて、見に行ったことがあるのです。あからさまに胡散臭かったので、早々に退散してきましたが、狭いビルのような、アパートのよう

    kazu64
    kazu64 2012/06/11
    南直哉さんにとってのオウム
  • 恐山あれこれ日記: 大仕事

    仕事 定年まで無事に仕事を勤め上げ、さてこれから、地域の活動や趣味に、そして家族に、これまで以上に時間と力を注ごうと思っていた矢先、彼は急な病魔に倒れました。そして1年、懸命なリハビリが功を奏し、彼は自力で歩けるまで、文字通りあと一歩のところまできました。ところが、ここまで回復したのに、再び病が彼を打ち倒しました。 「おとうさんが、お和尚さんに会いたいと言うんです」 家族にそう言われて、私は彼の病室に入りました。 「・・・、当だね、思ってもみないことになっちゃったね。残念だよね・・・。でも、部屋に入れてくれてありがとう。嬉しいよ」 「そうか・・・。想像することしかできないが、この状態はつらいよね。痛いだろうし、動けないんだからね。ぼくもほんの一時、半身不随になったことがあるけど、それでさえ、切なかったからね」 「さっき、奥さんに聞いたらさ、旦那は、死にたいとか、もう楽になりたいとか言わ

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    kazu64 2012/05/30
    人生の終幕はこういう人間でありたい。
  • 恐山あれこれ日記: 青春の後ろ姿

    青春の後ろ姿 つい最近、友人からびっくりするような話を聞きました。私の、永平寺に入門間もない、修行僧時代の映像が動画投稿サイトに出ているというのです。 検索してみるとそのとおり。私が入門して1年後の1985年に放送になったNHKのドキュメンタリー番組が、まるごと45分、投稿されていました(分割もされずにまるごと、というのは可能なのでしょうか)。 これは、実に思い出深い、それも苦い思い出のあるもので、私は放送後ずいぶんたってから一度見ただけで、その後、まったく無視していました。 実は、この番組では、当時、「お前、前半の主役だな」と先輩から揶揄されたくらいのインパクトで、私が登場します。 それというのも、冒頭のかなりの部分が、永平寺に到着したての新入り修行僧が、古参和尚による最初の指導に際して、厳しい叱責を受ける場面になっています。 このとき、当日の当番だった私は、その「厳しい指導」の中心人物

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    kazu64 2011/09/21
    うん、うん、いい話
  • 恐山あれこれ日記: 「栄光なき天才」たち

    「栄光なき天才」たち およそ試験が試験であるためには、次の二つの条件が必要です。 ①試験問題には事前に決められた一定の答えがあること。 ②出題者が受験者ではないこと。 この二つがそろわないと、試験すること自体が無意味です。 すると、受験者とは、あらかじめ答えを知っている者が出す問題を、いかに効率よく解くかの技術を競う人間ということになり、これは基的な構図として、他人の支配や命令に手際よく従う能力を競うのと同じことになるでしょう。 ということは、試験によって計測するのに最も適しているのは、官僚か官僚的な(あるいは官僚化した)職業の場合です。私が思うに、「秀才」とはそのようなことに長けた「技術者」でしょう。 これに対して「天才」とは、すでにある「答え」を見つけるような人間ではありません。そうではなく、普遍的で根源的な「問い」を、彼の生きる時代と社会の課す条件の下、自ら取り組むべき「問題」とし

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    kazu64 2011/06/22
    [「凡人」は、「問題」に取り組んでいる限りにおいて、「天才」たりえるはずです。「天才」の相貌が宿るはずです。」 けだし名言である。
  • 恐山あれこれ日記: あの時の話

    あの時の話 「あなたは、こんな文章も書いていたんですねえ」 最近、私のの読者だという人が、私が永平寺で修行生活をしていたころに書いた文章のコピーを送ってくれました。 それは、当時連載を持っていた『RONZA』(朝日新聞社)の原発特集(1997年2月号)に求められた記事で、私に書いた記憶はあったものの、中身はほとんど忘れていました。 いま読んでみると、いかにも素人臭い、詰めの甘い代物ですが、それでも、この問題に関して今の私が考えていることの趣旨は、すでに出ています。しかも、ちょっと面白い書き方なので、恐れ入りますが、以下に転載させていただきます。 なお、これにて当ブログにおける大震災に関する言及は、ひとまず終ります。ただ、今後、二、三の雑誌や書籍には、震災関連の発言が掲載される予定です。 文殊菩薩が泣いている 「もんじゅ」暴走 「もんじゅ」挫折 「もんじゅ」全面見直しへ 敦賀半島にある高速

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    kazu64 2011/04/20
    長い間盛り上がらずに放置されてきた、こういった良質な議論を、いまこの時にしないでどうする。
  • 恐山あれこれ日記: 大震災

    大震災 このたびの大震災に際し、多くの犠牲となった方々、被災された方々に、心から哀悼の意を表し、お見舞いを申し上げます。 地震直後から、私自身にも近親者・恐山関係者にも、様々にお見舞いをいただきました。ここに無事をご報告し、深く感謝いたします。 連日の報道を見ると、今回の地震は空前絶後の大災害で、簡単に言うべき言葉が見つかりませんが、ここ数日間、考えていたことを、あえて申し上げておこうと思います。 こういうことが起こると、会う人ごとによく言われるのが、 「いや、和尚さん、当に世の中何があるかわからないね。まったく諸行無常だね」 という話です。 確かにそれはそうなのですが、実は私が今回いちばん強烈な印象を持ったことは、それとは違うのです。 実は、11日のあの時間、私は福井の住職寺にいて、書類をつくっていました。たまたま、午後3時のニュースを見るつもりで、テレビは付けていました(習慣で、私は

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    kazu64 2011/03/16
    「答えなき問いが存在することを認め、その重圧に耐え、受け止め、そして相対するべきなのです。その意志と勇気に我々の尊厳がかかるのだと思います。」けだし名言。これを「精神のインフラ」という。
  • 恐山あれこれ日記: 「罪」と「信」

    「罪」と「信」 理解できないものは信じられない、と言う人がいますが、理解できることは信じるまでもなく、理解するだけでよいはずです。理解できないものだから、そこに信じる行為が成り立つというものでしょう。「不合理なるがゆえに我信ず」と昔の賢人が言ったゆえんです。 とはいえ、何がなんだかわからないものを信じるというのは、不可能に近いくらい難しいことです。ですから、そもそも絶対的な理念や絶対神的存在、定義上人間の「理解」を超えた存在性格をもつ何ものかを「信じる」とは、そもそもどういう行為なのかが問われざるを得ません。 このとき、その絶対神的存在が、我々を「審判」したり「救済」するという権能を持つというなら、それを「当に」「真剣に」「心から」信じているということは、いかにして自分にも他人にも納得させることができるのでしょうか。 熱狂的な礼拝を際限なく繰り返そうと、いかに莫大な供物を奉げようと、それ

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    kazu64 2011/03/10
    一神教の成立の精神構造を解説してくれる。人間の愚かさを自覚する反照的作業として全能の存在を「信じる」。
  • 恐山あれこれ日記: 言い訳的身の上話

    言い訳的身の上話 今まで私が何冊かに書いたり、講演などで話したりしてきた内容の、基的なアイデアや発想は、そのほとんどが10代終わりから20代の間に出てきたものです。 当時は無知蒙昧の若造でしたから、自分が問題にしているテーマに、何かちょっと使えそうなアイデアを思いつくたび、こんなことを思いつくなんて、オレは天才ではないかと、ひとりで興奮していました。 とはいえ、少々知恵がついてくれば、さすがに自分程度の人間が思いつくことは、ずっと昔に先賢がより鮮やかに、かつ徹底的に考え抜いていると、身にしみてわかってきますから、「天才」妄想は早々に醒めました。が、それでも、自分など及びもつかぬ賢人がかつて考えていたことと、つながるような考えに思い到ったことは、それはそれで嬉しい気持ちがしたものです。 まあ、実際には、思いついたことにしても、それなりに使えたのは、百のうち二、三というところでしたが(特に

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    kazu64 2010/10/12
    天命を知るということは難しいものです。
  • 恐山あれこれ日記: 誰の問題か、問題は誰か

    誰の問題か、問題は誰か 思いつき禅問答シリーズ、このあたりでもう一回。 ある老師が修行僧たちに説教しました。 「あちこちで老師方は衆生済度が大事であると教えているが、たとえば次のような3人の病人がやって来たら、どうやって教え導けばよいのか?  まず眼を病んでいる者は、老師が模範として示すことが見えない。耳が聞こえないものは、老師がどれほど言葉を尽くして教えても、聞こえない。話すことができない者は、自分の境地がどれほどのものか、老師に示すことができない。さあ、諸君、どうしたらよいか? もし、これらの人々を教え導くことができないというなら、仏法には大した功徳はないということになろう」 この話を聞いていた一人の修行僧は、別の老師のもとを訪れて、どう思うか質問しました。すると、その老師はまず言いました。 「礼拝しなさい」 修行僧が言われるままに礼拝して立つと、老師はいきなり、持っていた棒を修行僧に

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    kazu64 2010/10/02
    名言なり。「客観的普遍的真理それ自体があろうとなかろうと、それを問う当事者が存在しない限り、まったく無意味で、「真理自体」は無いも同然であり、無いのです。」
  • 恐山あれこれ日記: 伝統と創造

    伝統と創造 ある社会において、独特の思考様式と行動パターンを持つ集団が形成されると、当然、その集団と社会の間に差異ばかりか、矛盾や摩擦さえ生じます。ある集団において「稽古」や「修行」とされるものが、社会の「常識」においては「いじめ」や、場合によっては「狂気の沙汰」のごとく受け取られるようなものです。 ただし、その差異や矛盾、摩擦が「面白い」とか「意味がある」と認められれば、集団は存続し、単に存続するばかりではなく、発展していく場合があるでしょう。周囲に経済的利害も発生してくるはずです。 かくして存続し発展し、利益も生むとなると、集団はその思考様式と行動パターンを維持し堅守することになります。さらに時代が変わり社会状況が変わって、矛盾や摩擦がもっと大きくなっても、なお認められ続けるとなれば、まさにその様式やパターンは「伝統」と認知されるでしょう。 このとき大事なのは、矛盾や摩擦があっても社会

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    kazu64 2010/07/15
    伝統は社会の存在意義を提示してはじめて成立する
  • 恐山あれこれ日記: 宗教者の素質

    宗教者の素質 早いもので、私も出家してから今年で丸25年が過ぎました。で、そろそろタイトルのような話をしてもよかろうかと思い、書かせていただきます。 宗教者の素質として私が一番大事だと思っているのは、教義を深く理解できる頭脳でも、縦横無尽に説教する弁舌でもありません。まして霊感でも超能力でもありません。つまり、一般人にないような特殊能力を「持っている」ことではありません。 そうではなくて、大事なのは、自分が生きていること、存在していることに対する、抜きがたい不安です。どうして自分はこうなのだろう、このままでいいのだろうか。なぜここにいるのか、どこから来てどこへ行くのか。そういう問いが自分を底の方から揺るがしていることです。どうしても知りたいこの問いに答えられない切なさです。答える能力を「持っている」ことでなく、「持たない」ことなのです。いわば、この「不安のセンス」が、宗教家の資質として最も

    kazu64
    kazu64 2009/09/18
    悩み続けること、悩みから逃げないことが宗教家
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