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ブックマーク / bushoojapan.com (4)

  • 海上自衛隊は1974年に艦砲射撃でタンカーを沈めていた - BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン)

    集団的自衛権の問題などで揺れる日。武器使用などについての議論が盛んに行われていますが、自衛隊は40年前に武器を使って船を沈めていた「歴史」があったのです。 海上自衛隊で今も語り継がれる大事件 防衛庁の防衛「省」への移行を目前に控えた2006年秋、自衛隊の統合運用のための訓令の改正について話し合うための会議が、市ヶ谷の防衛庁で開催されていました。この日の議題は、災害派遣に関する規則の改正に関するもので、大きな混乱もなく議事は進んでいきました。 ところが、災害派遣に際しての武器使用を認める条項を削除する提案がなされた途端、海上幕僚監部の将校から異論が出されました。というのも、海上自衛隊創設以来、初の海上戦闘こそ、災害派遣における武器使用のケースだったからです。 1974年11月27日 護衛艦4隻が炎上して漂流するタンカーに艦砲射撃 この日午後1時過ぎ、海上自衛隊の護衛艦「はるな」、「たかつき

    kazuya53
    kazuya53 2014/07/13
    こんな事件があったのか
  • 本能寺直前に土佐の長宗我部と明智との書状のやりとり判明

    能寺の変の直前に、四国の長宗我部元親が明智光秀の重臣にあてた書状が発見されました。 林原美術館(岡山市)と岡山県立美術館が23日に発表しています。 天正10年(1582年)6月2日に勃発した【能寺の変】の理由を巡っては、単独思い付き説、朝廷黒幕説など数多くありますが、なかでも有力なのが四国説。 当初の信長は、四国をめぐって光秀を交渉役(厳密には今回の書状宛先である重臣・斎藤利三)にして、長宗我部に対して 「四国は切り取り次第(勝手にやってくれ)」 と約束しました。 しかし、信長は光秀から秀吉に四国担当を交代して、長宗我部に「やっぱり、チミは土佐と阿波の半分だけねテヘペロ」とちゃぶ台をひっくり返すのです。 この流れに光秀が大きなストレスを抱えたことは間違いなく、能寺の変を起こす引き金になったといわれています。 今回、見つかったのは、岡山市の林原美術館が所蔵する戦国時代の古文書類「石谷

    本能寺直前に土佐の長宗我部と明智との書状のやりとり判明
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    kazuya53 2014/06/24
    新聞社のよりちょっとわかりやすい解説になってる
  • 6月2日は本能寺の変!森蘭丸を討った男が15年後の同じ日に死亡の謎 - BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン)

    中学校までは皆ほとんど同じように歴史を習いますが、その中で大人になるまで覚えている出来事や人名となると、おそらく半分もないのではないでしょうか。 歴史好きからすると哀しい話ですが、あんなに「暗記しろ!」とだけ言われてたらほとんどの人は興味を持つヒマもないですものね。いい先生だと面白い余談をしてくれるんですが。 そういうワタクシも古代~近世担当の先生は面白い方だったので授業の中身も覚えておりますが、近現代史の先生は「プリントのここに赤線引いといて^^」しか言わない人だったのでロクに覚えておりませんでしたし。 まあ歴史の先生に対する悪口はその辺にしておきまして、日は誰もが知っている日史上の一大事件に関するお話です。 能寺で信長業火に散る! 天正十年(1582年)6月2日、能寺の変で織田信長が自害しました。 明智光秀に殺された、といっているもありますが、信長と光秀が一騎打ちをしたわけで

    6月2日は本能寺の変!森蘭丸を討った男が15年後の同じ日に死亡の謎 - BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン)
    kazuya53
    kazuya53 2014/06/02
    一番槍の人とか普通知らんw
  • 【書評】日本の米の故郷が絞り込まれた!『列島初期稲作の担い手は誰か』(すいれん舎) - BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン)

    弥生人が縄文人を駆逐した?弥生時代というのは、水田稲作だけでなく「金属器」の時代でもある。世界史的にみても「石器時代」と「鉄器時代」では文明度に大きく線がひかれるのが普通だ。 明治時代になると、欧米文化の流入により、日にもあった石器人がなにものかの議論が巻き起こる。 その時点での石器人(縄文人)は、アイヌ人やコロボックルなど、すくなくとも現代の日人とは違う人種という認識だった。 石器人=先住民や異民族ならば、日民族の祖先は渡来民族ということになる。 古事記などでも天皇の祖先神アマテラスの弟のスサノオは朝鮮半島と日列島を往来する神となっていることからも、それが裏付けられるとされた。 さらに、考古学でも、石器時代(縄文時代)と高塚時代(古墳時代)しかないと思われていたのだが、磨製石器の発見でその中間時代(弥生時代)が存在が明らかになった。磨製石器は主に石包丁とよばれる稲を刈る道具つまり

    kazuya53
    kazuya53 2014/05/22
    おもしろい。暇があったら読もう。
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