加藤清正は豊臣秀吉に仕え、肥後(熊本県)の大名になった武将です。 軍事だけでなく財務や内政、築城も得意としており、肥後の発展に大いに貢献しました。 民衆からの支持を受けて死後に神格化され、「清正公(せいしょこ)さん」と呼ばれて親しまれ、今でも信仰の対象になっています。 晩年には豊臣氏と徳川氏との対立の緩和に尽力し、政治家としても成熟した姿を見せました。 この文章では、そんな加藤清正の生涯について書いてみます。 【加藤清正の肖像画】 秀吉の縁者として生まれる清正は1562年に尾張(愛知県)の中村で生まれました。 中村は秀吉の生地でもあり、母の伊都は秀吉の母・大政所の従姉妹でした。 このため、生まれながらにして秀吉との縁が深かったことになります。 父は加藤清忠という人物で、若い頃は斎藤道三に仕えた武将でした。 しかし戦場で負傷したことをきっかけに武士をやめ、鍛冶屋を営んでいました。 父は清正が