ここでは、2018年12月30日の著作権法改正によって著作権保護期間の延長された作家名の一部を、昭和の終わりまでの20年分、簡易的な一覧にしています。(参考:「死せる作家の会」) 著作権法改正によって、従来の保護期間である死後50年は死後70年へと延長されました。そのため、たとえば1968年に亡くなった作家の作品がパブリック・ドメインになるのは、2039年の元旦になります。 今回の保護期間延長が遡って適用されることはありません。そのため、1967(昭和42)年以前に亡くなった作家の著作権は復活しません。すでに著作権保護期間が満了している作家については、「著作権の消滅した作家名一覧」をご参照下さい。 【1968(昭和43)年没】 足立勇(1901年11月2日~1968年1月11日) 石田英一郎(1903年6月30日~1968年11月9日) 内山順(1890年~1968年) 大原總一郎(190
公開中の作品 あいびき (新字新仮名、作品ID:5) →ツルゲーネフ イワン(著者) 浮雲 (新字新仮名、作品ID:1869) エスペラントの話 (新字旧仮名、作品ID:46659) 嫉妬する夫の手記 (新字旧仮名、作品ID:47064) 小説総論 (新字新仮名、作品ID:1868) 旅日記 東海道線(新字旧仮名、作品ID:4627) 平凡 (新字新仮名、作品ID:3310) 未亡人と人道問題 (新字旧仮名、作品ID:58810) 椋のミハイロ (新字旧仮名、作品ID:58820) →プルス ボレスワフ(著者) 遺言状・遺族善後策 (新字新仮名、作品ID:3311) 余が言文一致の由来 (旧字旧仮名、作品ID:901) 予が半生の懺悔 (新字新仮名、作品ID:383) 余が翻訳の標準 (新字新仮名、作品ID:384) 四日間 (新字新仮名、作品ID:1867) →ガ
和歌山県生まれの民俗学者、博物学者。南北アメリカやイギリスで研究活動を続け、生物学の分野では「粘菌」の研究で名高い。諸外国語、民俗学、考古学に精通し、柳田国男をして「わが南方先生ばかりは、これだけが世間なみというものがちょっと捜し出せようにもない」と言わせた。 「南方熊楠」
和歌山県生まれの民俗学者、博物学者。南北アメリカやイギリスで研究活動を続け、生物学の分野では「粘菌」の研究で名高い。諸外国語、民俗学、考古学に精通し、柳田国男をして「わが南方先生ばかりは、これだけが世間なみというものがちょっと捜し出せようにもない」と言わせた。 「南方熊楠」 公開中の作品 失うた帳面を記憶力で書き復した人 (新字新仮名、作品ID:52959) 易の占いして金取り出したること (新字新仮名、作品ID:1917) 女順禮 並にサンヤレの事(旧字旧仮名、作品ID:56606) きのふけふの草花 (新字旧仮名、作品ID:3208) 棄老伝説に就て (旧字旧仮名、作品ID:24456) 作文三篇 (旧字旧仮名、作品ID:58660) 塩に関する迷信 (旧字旧仮名、作品ID:52935) 十二支考 01 虎に関する史話と伝説民俗(新字新仮名、作品ID:526) 十二支考 02 兎に関す
石川県生まれ。1896(明治29)年に金沢の第四高等学校講師、次いで教授となった。1911年(明治44)に発表した「善の研究」で、その西洋哲学と充分比肩しうる独創性で日本の思想界に衝撃を与える。その後も西田は「善の研究」の〈純粋経験〉の立場に長年にわたり厳しい批判を重ね、ついに〈場所の論理〉に到達する。その後、マルクス主義の台頭を睨みつつ〈歴史的現実世界〉の問題と取り組み、〈場所〉を〈弁証法的世界〉として具体化し、〈絶対矛盾的自己同一的世界の自己限定〉として〈歴史的実在〉の世界をとらえる立場を展開した。 近年になって脱構築の流れに乗って世界的な再評価が進んでいる哲学家の一人である。(nns) 「西田幾多郎」
一体、友情といふものは、それ自身甚だ曖昧なもので、同性間の友情でさへ、様々な動機によつて、様々な形態を取るものである。 例へば密接に利害関係によつて結ばれた友情、精神的に何物かを与へ合ふ、所謂肝胆相照す底の友情、共通の思ひ出がなんといふことなしに、「容(ゆる)し容される」気持にさせる友情、等々、数へ上げればいくらもあるだらうが、最も奇怪にして、しかも、甚だその例に乏しくないのは、ある型の男性とある型の男性との間に生ずる「恋愛的友情」である。これを九州風に云へば「にせさん」型男性の能動的(アクチイヴ)な友情と、「ちごさん」型男性の受動的(パツシイヴ)な友情とによつて、成立する一種独特な関係である。 この関係は、非常に明瞭な場合を除いて、割合に世間は注意してゐないやうだが、よく仲のいい友達といふものは、性格が全く相反してゐるといふやうなことをいふ。その相反し方は、概ね、一定の法則に従つてゐるの
江戸から明治への転換期にあって、伝統的な話芸に新たな可能性を開いた落語家。本名は出淵次郎吉(いずぶちじろきち)。二代三遊亭圓生門下の音曲師、橘屋圓太郎(出淵長藏)の子として江戸湯島に生まれ、7歳の時、子圓太を名乗って見よう見まねの芸で高座にあがる。後にあらためて、父の師の圓生に入門。母と義兄の反対にあっていったんは落語を離れ、商家に奉公し、転じて歌川国芳のもとで画家の修行を積むなどしたが、後に芸界に復帰。17歳で芸名を圓朝に改め、真打ちとなる。まずは派手な衣装や道具を使い、歌舞伎の雰囲気を盛り込んだ芝居噺で人気を博すが、援助出演を乞うた師匠に準備していた演目を先にかける仕打ちを受けたのを機に、「人のする話は決してなすまじ」と心に決める。以降、自作自演の怪談噺や、取材にもとづいた実録人情噺で独自の境地を開き、海外文学作品の翻案にも取り組んだ。生まれて間もない日本語速記術によって、圓朝の噺は速
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