ブックマーク / somosora.hateblo.jp (73)

  • 安曇族のこと - SOMoSOMo

    穂高連峰 いくつかご質問を頂いておりましたが、なかなかお答えすることができず申し訳なく思っております。 古い時代のことですので仮説、推測の中で語られることが前提としてあり、すでに様々な説が提示されています。そんな中で当ブログでは、主に出雲伝承を肯定的に捉えた時に見えてくる古代史を辿っております。その上でご質問にお答えすることになりますので、限られた範囲であることと、あくまでSorafullの見解となりますこと、ご理解ください。 N様より信州安曇野の穂高神社に祀られる安曇族についてご質問を頂きました。安曇族といえば″SOMoSOMo″の始まりから繰り返し書かせて頂いており、推論を取り混ぜつつ熱く語ってきております。過去の記事に沿って大まかに振り返ってみたいと思います。 安曇野市の穂高神社 神船「穂高丸」 御船祭についてはこちらをご参照ください。 安曇野のお船祭り - 安曇野市公式ホームページ

    安曇族のこと - SOMoSOMo
  • 朱の国⒂失われた記憶と椿の花 - SOMoSOMo

    朱のその後 日の朱の文化については記紀で触れていないせいか、古代史の中でもほとんど取り上げてこられませんでした。記紀は8世紀初めに編纂されましたが、6~7世紀に最大の朱産地だった宇陀の朱の記憶がこの短期間で失われてしまうでしょうか。都はまだ大和にあります。あえて書かせなかったとしか思えません。理由は推測の域を出ませんが、中国史書に記録された邪馬台国のヒミコの存在を隠すために、朱にまつわること一切を封じてしまったのか、もしくは唐や新羅から国を守るために水銀の所在を隠す必要があったのかもしれません。 出雲伝承では古事記を書いたと伝わる柿人麻呂が、宇陀で詠んだ歌があります。 東の 野にかぎろひの 立つ見えて かへり見すれば 月かたぶきぬ 軽皇子の遊猟に伴って、宇陀の阿騎野へ訪れた時の歌です。阿騎野は宮中行事の薬猟が行われていたところ。ほんの少し前までは日一の朱産地でした。 「かぎろひ」とは

    朱の国⒂失われた記憶と椿の花 - SOMoSOMo
    keystoneforest
    keystoneforest 2020/06/06
    水銀朱の視点から大陸と日本との繋がりを眺めていくことで、想像していたより遥かに豊かでドラマチックだった古代日本の記憶がはっきりとよみがえってくるのを感じました。とっても楽しく読ませていただきました(^_^)
  • 日曜美術館『疫病をこえて~人は何を描いてきたか』 - SOMoSOMo

    私事で失礼します。 今年に入ってから「朱の国」シリーズを書き始めていましたが、新型コロナウイルス感染症のニュースがしだいに増えてきたため、落ち着いてからにしようと投稿を控えておりました。ですが今なお先が見えない状況が続いていますので、いつまでも先送りにせずブログを再開することにしました。 辛いニュースに何度も心が折れそうになりますが、それでもこの時期をなんとか乗り越えようと多くの方が踏ん張っておられることと思います。一日も早く心穏やかな時間を取り戻せるよう願うばかりです。 私は先日、気分転換しよう!と普段あまり観ないYouTubeを開いて音楽の動画を探索しました。様々なジャンルの方たちの、仲間と遠隔セッションする姿が続々と投稿されています。オーケストラまであってびっくり。離れていても気持ちをひとつにできるって素晴らしいですね。できることを探して即行動する姿にも励まされるようで、聴いていくう

    日曜美術館『疫病をこえて~人は何を描いてきたか』 - SOMoSOMo
    keystoneforest
    keystoneforest 2020/05/02
    >人間は疫病に接した時に負の側面が放出されます。あらゆる醜いものが出尽くした時、すべてを見た上で人間とは何か、人間の美しい側面とは何か、それを伸ばすにはどうしたらいいか、ということに心は向かっていく…
  • 朱の国⑴生きている赤 - SOMoSOMo

    私 Sorafullが出雲伝承に出会ったきっかけのひとつは辰砂しんしゃ(水銀の原鉱石である硫化水銀)の存在でした。 友人が「賢者の石」とも呼ばれる辰砂に興味をもち、歴史好きというわけでもないのに、大和と辰砂の関連については何度も私に話をしてくれました。なぜ現代の人に辰砂のことが伝わっていないのか不思議でならないと。 確かに古代豪族たちがなぜ山奥の不便で狭く、沼地ばかりの大和をこぞって狙ったのか、辰砂を除けば他に理由は思い当たりません。それが大和の水銀鉱脈を得るためだったのではないかと想定すると、神武や朝廷によって征伐された先住民「土蜘蛛」とは、辰砂に関わる人々の可能性が高まります。蜘蛛の字を分解すると「朱を知る虫」と読めなくもありません。古事記の著者はここにメッセージを込めているのかもしれない、と勝手に想像したのです。 さらに古事記では「土雲」と表記していることに違和感を覚え、「出雲」と漢

    朱の国⑴生きている赤 - SOMoSOMo
  • 船木氏⑶伊雑宮と伊射波神社、ふたりの女神 - SOMoSOMo

    出雲伝承が伝える伊勢への御巡幸を見てみましょう。 斎木氏と勝氏の伝承が多少違います。斎木氏はサホ姫が太陽の女神を伊勢へ避難させたとし、勝氏は大和姫です。斎木氏の著書の中には大和姫としている記述もあるので、ここでは大和姫の伝承を紹介します。 まず大和の笠縫村の桧原神社で豊来入姫(トヨ)が月読の神を祀っていましたが、豊国軍が劣勢となり大和を追われ丹後へと逃げます。そして舟木の里に奈具社を建て、さらに日置の里の宇良神社(浦嶋神社)へ。そこから伊勢の椿大神社へ避難しその地で没します。豊来入姫は箸墓古墳の東隣り、ホケノ山古墳に葬られたと伝わっているそうです。 その後、大和姫が奈具社に奉仕するようになり、月読の神に加えて太陽の女神を祀ります。そこから宇良神社に移りましたが、朝日信仰のため東を目指し伊勢へと向かいます。(サホ姫は大和から丹後へと太陽の女神を避難させていたのかも) 大和姫は信者を増やすため

    船木氏⑶伊雑宮と伊射波神社、ふたりの女神 - SOMoSOMo
  • 船木氏⑵大和姫と岩戸開き - SOMoSOMo

    大和姫の御巡幸 日書紀では崇神天皇の時、宮中にお祀りした天照大神の勢いを畏れ、宮中から大和の笠縫村へ遷し、娘の豊鋤入姫に祀らせたとあります。御神宝の八咫鏡ですね。その後垂仁天皇の娘、大和(倭)姫が受け継いで、天照大神の鎮座地を探しながら伊勢内宮へと辿り着きました。(大和姫はヒバス姫の娘なので登美家の血筋です。) 記紀に描かれた天照大神の岩戸隠れとは、大和から伊勢へと遷座するのに要した期間のことを表していると思われます。当時、第2次物部東征によって大和は混乱の中にあり、磯城王朝の御神宝を安全な場所へ避難させようとしたのが始まりだったようです。 御巡幸の中で天照大神は各地で祀られました。その場所を元伊勢と呼びます。その行程が日書紀に少しと、皇太神宮儀式帳や倭姫命世記に記されています。 倭姫命世記が一番詳しいのですが、鎌倉時代に書かれたらしく、後世に話が追加されたものと考えられています。とこ

    船木氏⑵大和姫と岩戸開き - SOMoSOMo
  • 船木氏⑴朱砂と製鉄と - SOMoSOMo

    伊勢と淡路島を結ぶ「太陽の道」に関わっていると思われる、船木氏の足跡を辿ります。まずは文献に記されたところから。 古事記で船木氏と関連のあるところを取り上げると、 ①神武天皇の皇子、神八井耳命は伊勢の船木の直らの祖。とあり、多氏と同祖となる神八井耳命の後裔としています。出雲では海村雲とタタラ五十鈴姫の御子といわれます。 ②ヒコイマスの孫の曙立アケタツは伊勢の佐那の造らの祖 ③手力男は佐那の県にいます神 多気郡多気町の佐那は伊勢船木氏の拠地といわれます。天手力男命は内宮の相殿に祀られる神さま。天照大神がスサノオの傍若無人ぶりに嫌気がさして岩屋戸に籠ってしまった際、岩戸を開けて世界に光を取り戻したのが手力男神。岩戸開きの神さまです。 船木⇒佐那⇒手力男神、という流れがあるようなのですが、その出所がわかりません。後ほど書きますが住吉大社神代記の中に、船木氏の祖先のひとりが「伊勢の船木に在る」と

    船木氏⑴朱砂と製鉄と - SOMoSOMo
  • 五斗長垣内遺跡と舟木遺跡 - SOMoSOMo

    地名というのは先人からの貴重な遺産。どのような地形、性質だったのかだけでなく宗教、職種、誰が関わっていたのか等々、多くの情報を未来へ伝え得るものですが、一旦変更されるとそれらの情報とともにあっけなく失われてしまいます。 国内の地名残存率を見てみると、平均で4割。ところが淡路島は8割も残っているというのです。郡や郷だけでみると9.5割!さすが国生みの島ですね。 今回訪ねた淡路島の五斗長垣内ごっさかいと遺跡の「ごっさ」も不思議な名前ですが、由来については残念ながらまだ腑に落ちる説に出会っていません。 遺跡近くの棚田 2004年、淡路市黒谷の五斗長ごっさ地区を台風が襲い、ため池が決壊して棚田が土砂に埋まってしまいました。50世帯、高齢化の進むこの地区では若い人がますます減って大きな痛手となりました。それでも立ち上がるしかないと復旧の工事を始めます。ところが土砂を取り除いていくと、水田の下から国内

    五斗長垣内遺跡と舟木遺跡 - SOMoSOMo
  • 太陽の道⑵松帆神社、伊弉諾神宮 - SOMoSOMo

    ところで淡路島の伊勢久留麻神社は、伊勢の斎宮跡と舟木石上神社を結ぶとされる太陽の道(北緯34度32分)から僅かにずれていて(北緯34度31分)、実際には久留麻神社の真北1㎞に位置する松帆神社が太陽の道にぴったりと重なるんです。 創建が1399年なので古代の信仰とは関係ないと思っていたのですが、実は不思議な縁があったことをT様に教えて頂きました。今回の旅ではこちらへは行かず、残念! 楠木正成と松帆神社 楠木正成は富田林の美具久留御魂神社(下水分社)、千早赤坂村の建水分神社(上水分社)等を氏神として崇敬していました。千早赤阪村は金剛山の西側ですが、東麓にはかつて出雲族の高天村がありました。 楠木公は湊川の戦いで自害する直前、守護神としていた八幡大神の御璽(文殊のようなもの)を家臣の吉川弥六に託します。弥六たちは敵陣を突破してなんとか淡路島へ渡り、楠木村(現在の淡路市楠)の山中に小さな祠を建て

    太陽の道⑵松帆神社、伊弉諾神宮 - SOMoSOMo
  • 太陽の道⑴伊勢久留麻神社とイザナギ大神の道 - SOMoSOMo

    淡路島へ行ってきました。 前々から気になっていた五斗長垣内ごっさかいと遺跡と舟木遺跡を目指します。1~3世紀の鉄器工房が現れたというかなり興味深い場所です。 その前に、前回記事の伊勢久留麻神社が近かったので、先にそちらを回ってみました。 東向きの拝殿です。昔は来馬大明神と呼ばれていたそうです。 ご殿。創祀年代は不詳ですが、社伝によると敏達天皇の頃(572~585)に伊勢国の久留真神社より勧請されたとあります。 東を向くと鳥居の先に小さく海が見えています。古代は目の前に海が広がっていたでしょう。(昔は少し内陸にあった可能性もあるそう) 実は前回記事で大阪、富田林市の美具久留御魂神社のことを教えて下さったT様より、この旅の後に再び貴重な情報を頂きました。 久留麻周辺の神社は愛宕山を神奈備/ランドマークとしているように思われるとのこと。以前は山頂に大きな三松が立っていて、そこに愛宕神社の祠が

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  • オオタタネコと美具久留御魂神社 - SOMoSOMo

    中西・秋津遺跡 先日、弥生時代前期最大の水田跡が見つかったとの報道がありました。奈良県御所市の中西・秋津遺跡です。 2009年から調査が始まっていたようで、当初は古墳時代前期(4世紀前後)最大級の祭祀集落跡として発表されました。当時の中心地であった太田村の纏向からは15㎞南西に位置していますが、一豪族のものとは考えにくい規模であり、初期ヤマト政権による宗教都市ではないかという見解だったようです。その後水田跡が徐々に見つかって、今回の調査結果を合わせると43000㎡となり、地形を考慮すると総面積10万㎡以上になる可能性もあるとのことです。東京ドーム2つ分? 緩やかな傾斜地を利用しての灌漑設備を伴う広大な水田が、この時期にはすでに作られていたことがわかりました。 遺跡の場所を見ると、出雲族と海村雲率いる秦族の連合国が誕生した地域になりますね。村雲は初代ヤマト大王。 火雷神社は村雲たちの住んだ笛

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  • 弥彦神社と伊夜比咩神社 - SOMoSOMo

    今回は頂いたコメントの紹介をさせて頂きます。 御所市の「くじら」 第1次物部東征で物部軍が熊野からヤマトに向けて侵攻する際に、記紀では土着の豪族たちと戦う場面が幾度も描かれていますが、出雲伝承では戦いはなかったと言われます。 記紀は物部軍が勝利するたびに天皇に歌わせますが、その中のひとつにクジラが出てきます。 「宇陀の高い山城で、鴫しぎを獲る罠を張った。ところが私が待っている鴫はかからず、大物のクジラがかかった」 鴫というのは川辺に住む鳥です。それを山に捕まえに来たら海の王者、クジラがかかったというのです。シギというのは磯城シキ王朝にかけているとして、クジラとは何なのか。 例えば物部軍を先導した八咫烏とは出雲伝承によると登美家です。登美家は事代主の子孫。事代主は海の神、えびすでもあります。えびすは漁業の神としてのクジラのことでもあります。つまり出雲の事代主をクジラと例えたのではないかと考え

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  • 大嘗祭の儀式から見えてくるもの - SOMoSOMo

    明日11月10日には、台風で延期となっていた天皇陛下ご即位のパレード「祝賀御列の儀」が行われます。お天気にも恵まれそうですね。 先日の即位礼正殿の儀では、皇居に架かる虹が大きな話題となりました。激しく降り続いていた雨も、天皇皇后両陛下がお姿を現される直前には弱まり、雲の隙間から注ぐ光の下、儀式は粛々と行われていきました。まるで神々の祝福に包まれているかのような不思議な時間でしたね。 天皇陛下は学生の頃より水についての研究を続けておられ、水運に始まり「足りない水」から「多すぎる水」つまり水害の対策へとその研究の幅を広げてこられたそうです。10月の相次ぐ水害に、研究者としても心を痛めておられたでしょう。そんな中で行われた正殿の儀の、奇跡ともいえるひと時の晴れ間と虹は、令和の時代への希望を後押ししてくれたような気がします。代々語り継がれること、間違いありません。 さて、続く14、15日には大嘗祭

    大嘗祭の儀式から見えてくるもの - SOMoSOMo
    keystoneforest
    keystoneforest 2019/11/09
    久しぶりの更新、待ちかねていました。子孫繁栄や五穀豊穣、民族の協力と和合を願い祈った遠い祖先たちみんなが神々に繋がっていくように思えます。
  • 宮地嶽古墳⑹翁の舞と山の能。そして磯良舞 - SOMoSOMo

    宮地嶽古墳の埋葬者は誰なのか、6回に渡り探ってきましたが、そろそろ今回でひと区切りとしたいと思います。 宮地嶽神社では磐井の子孫(孫)を祀っていて(埋葬者?)、それは安曇氏であるという情報があるようです。磐井の孫というのは年代から可能性ありと思われますが、安曇氏というのは現段階ではまだ繋がっていません。筑紫国造家と安曇氏に婚姻関係があったという根拠に辿りつけませんでした。 宮地嶽神社のかつての祭神、宮地嶽大明神「安倍相丞」から、大彦の子孫とされる筑紫国造磐井を辿ってみたところ、物部ばかりが現れ、そこに高木神の存在が透かし見えるようでした。 「勝村大神(藤高麿)」と「勝頼大神(藤助麿)」については物部の血筋である可能性は高いようです。 シリーズ最初の記事で、津屋崎古墳群の中では宮地嶽古墳だけが博多に面しており、宗像氏の古墳とは思えないと書きましたが、調べていくうちに、相島がもとは大彦の子孫で

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  • 宮地嶽古墳⑸筑紫神楽舞とサルタ彦の苦悩 - SOMoSOMo

    サルタ彦大神の七変化 「サルタ」とはドラビダ語で「突き出たもの、出っ張り」という意味で、猿とは無関係です。サルタ彦は象神のガネーシャなので鼻高彦とも呼ばれますが、山岳仏教の中でそれが天狗に変わってしまいました。(ガネーシャの鼻は男性の象徴。子孫繁栄の源です) サルタ彦は他にも田畑を守るカカシや、山や湖を造るダイダラボッチ、厄払い人形、信楽の笠ダヌキ、山彦まで、姿を変えて人々を守ってくれる存在です。 下の写真は「岩手さわうちの普及会」で紹介されている厄払い人形です。 https://sawauchisyoku.com/?pid=134346189 奥羽山脈の谷底にあるという旧沢内村は豪雪、貧困、多病多死など非常に厳しい暮らしだったそうです。近くの西和賀町では厄払い人形が古くから伝わり、人形を担いで歩くことでその土地の疫病神を背負わせ、そして村境の木に結び付けて外からの疫病神が入ってくるのを

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  • 宮地嶽古墳⑷英彦山とサルタ彦大神 - SOMoSOMo

    英彦山の神々を見ていきましょう。 地図は南北を反転させています。 英彦山神宮の主祭神は天忍穂耳命アメノオシホミミです。天照大神の御子なので日の子の山、日子山と呼ばれています。(のちに彦山⇒英彦山) 天忍穂耳命は高木神の娘、栲幡千々姫タクハタチヂヒメとの間にニニギノ命、火明命をもうけました。つまり徐福の父ということになります。古事記では正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命という勝ちまくっているような名のわりに、さほど存在感がありません。忍穂耳命は天照大神から降臨するよう命じられますがうだうだとして、やがて息子が生まれ、その息子ニニギに行かせることにしたのです。徐福の父は渡来しなかったということでしょうか。 出雲伝承では徐福が秦国から連れてきた母は、和名が高木栲幡千々姫と伝えられ、幡は秦を意味します。最初はJR佐賀駅の北側辺りの高木に住み(高木姓も多い)のちに筑紫の南部に住んだそうです。亡くなった後に高

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  • 宮地嶽古墳⑶朝闇の筑紫舞 - SOMoSOMo

    筑紫舞についてはこちらの記事に書いています。 筑紫舞宗家の西山村光寿斉さんは、昭和11年に宮地嶽古墳内で筑紫舞の奉納に立ち会っておられます。立ち会うというよりも、ある儀式のようなものを経ることで、筑紫舞伝承者として最後の段階へと進んでいくことになった、そんな特別な場であったようにも思えます。 舞の奉納ということに限って言えば、その時集まった人たちが「去年はあの山の向こうの山の上で木組みをして云々」と言われたそうで、奉納の場所は他にもあったようです。当時筑紫方面(太宰府)からこの古墳へ度々奉納に来ていたことは、証言もあって明らかですが。 不思議なことに光寿斉さんは昭和11年の奉納の際、あの大きな宮地嶽神社がそこにあるとも知らずお参りもしなかったと言われています。いつもは道端の小さなお社にさえ手を合わせて通る人たちが、この時は光寿斉さんに教えようともしなかったというのです。 古田武彦氏によると

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  • 宮地嶽古墳⑵磐井と大彦、鞍手の伝承 - SOMoSOMo

    大彦についての過去記事です。 出雲伝承には九州の情報がそれほどありません。なので独自の伝承がとても多い九州に踏み込んでいくと、道標なしには翻弄されてしまいそうだな、というのが正直な印象です。まだまだ未知の情報がありますし、現段階はひとつの答えを求めるよりも、出雲伝承の視点に立ちつつどういった歴史が見えてくるのかを探っていけたらと思っています。 前回は筑紫国造磐井は大彦の子孫であり、以前は大和で大王に仕えた朝廷側の国造なのか?というところで終わりましたが、もう少し丁寧に見てみたいと思います。 日書紀にある毛野臣へのセリフの意図は、九州王朝勢力が存続しているのではなく、磐井はあくまで筑紫国造だと強調したかったともとれます。であれば当は磐井は大彦の子孫ではなく、もと九州王朝の大王に通じる存在だったのを隠そうとしたということでしょうか。 まずは磐井と大彦の接点になるかと思われるところを、いくつ

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  • 宗像一族。そして宮地嶽古墳⑴ - SOMoSOMo

    引き続き、N様より頂いたご質問に今回もチャレンジしてみたいと思います。 その前に、N様がご紹介下さった「海の民、宗像」という漫画がありまして、これは宗像市世界遺産登録推進室というところが編集しておられます。発行から2年後に見事登録されました! の内容は、弥生時代から現代までの宗像一族をいくつかの時代を取り上げ、ストーリー仕立てにしてわかりやすくまとめられています。最後にコラムとして古代の詳しい解説もついています。 常に西の一大勢力(渡来人のよう)の脅威を感じつつ一線を画し、大和朝廷からも圧力を受けながら対等であることを望み、なんとか協力関係を保ってきた苦しい立場が描かれます。6世紀には朝鮮半島で戦が激化し、宗像を含め九州は直接その影響を受け続けます。そんな中、磐井の乱が起こり、宗像は朝廷か筑紫側かどちらに付くのか選択を迫られる場面もみられます。物語では友好関係にあった大和朝廷に表向きは加

    宗像一族。そして宮地嶽古墳⑴ - SOMoSOMo
  • 九州王朝説と出雲伝承 - SOMoSOMo

    以前、N様より次のようなご質問を頂いておりました。 筑紫君一族と宗像一族、そして百済との繋がりはどうなっているのでしょうかと。磐井の乱の真相、継体天皇の没年における百済記の真意、宮地嶽古墳の被葬者についても尋ねておられます。これらの質問はひとつの大きな問題を孕んでいます。 九州王朝説をどうとらえるか、です。 ブログは大半が出雲伝承に基づいておりますが、物部東征以前の九州地方については、九州王朝説の古田氏による倭人、邪馬壹国の論証や筑紫舞の存在を重視しています。 九州王朝説といっても派閥があるようで、古田氏は663年の白村江の戦いで敗北するまで王朝が存在したとし、それ以前の倭の五王までとする説や、7世紀末までとする説もあるようです。Sorafullは出雲伝承の大筋を取りつつも、倭の五王に関してはすんなりと大和朝廷側だと言い切れない迷いを感じていました。宋書や梁書、記紀を読んだ上で判断する

    九州王朝説と出雲伝承 - SOMoSOMo