その日の夜は、これから生命が活発にはばたきだす予感を感じさせる初夏だというのに、いやに月が冴(さ)えていて肌寒かったと、当時25歳であったジークフリート・アドルフは鮮明に思い出すことができる。 窓から差す月明かりが、船の中の灯りよりもぼんやりと真白く、粉雪のようなかすかなきらめきが、夜色に染められた船内を照らしている。 鈍い赤と橙が入り混じったのひかりをもたらしていた船灯を消してしまっても、首から下げたペンダントの中にある、小さな写真の中の少女が見えるのではないかと思うほどであった。 くすんだ古いペンダントは、円の中央にアイスバーグの薔薇の紋章が彫られている。紋章のすきまに、焦げた銅のさびがかすかについている。紺色の地に、草花を象(かたど)った金の刺繍の施された軍服の中に隠されたそれを首から出し、手のひらに乗せると親指でぱちりと弾いて中を開く。 金色のまつげに縁(ふち)どられた、夜のとばり
イザベルが態勢を整えた。背骨の浮くほどに肉の薄い、白い背中のすじを伸ばして。戦闘態勢に入ったのだ。 十六夜もわずかに崩していた体の姿勢を伸ばした。すべての関節の至るところの、少しのすきまにも空気を入れて血液の巡りをよくするかのように。 ふたりとも、戦場の軍人と同じ心構えであった。ーー彼女らが纏っているのは軍服ではなく、凛とした着物と、海がもたらした女性の体を守る衣であったが。 ジークフリートも目を瞠ったまま、うすく口を開けて背筋を伸ばして立っていた。 ブレンも、アルベリヒさえも。 彼らは軍人だった。これから何が起こるのか、本能的に悟ってしまったのだ。 神聖な決闘が今始まろうとしている。 海底に来てから、どれほどの時間が流れていたのか、すでにわからなくなっていた。夜が幾重も巡り、今ここは生まれ変わった朝の白い雲が下ろした霜の光が、舞い降りてきているような気がした。 地上の透明で暖かなひかりが
改めて周囲を見ると、クルワズリの街は全体的にセピア色がかって見える。そして、焼き魚よりも半生か、生魚を提供し、それを調理してサンドイッチにしたり、海鮮丼にして売ったりしている店が多い。 ジークフリートは両親がジャポニズム(日本趣味)だったため、幼い頃から家庭料理に海鮮丼や納豆が出ることが時々あったので、こういった独特の風味や匂いに慣れていたが、アルベリヒは生魚に未だ慣れていないので、オイルで焼いたアクアパッツァを提供している店がないものかと、眉を顰めて不機嫌そうに首を左右にゆっくりと動かして探している。アルベリヒには、先ほど共に食べた海鮮丼は合わなかったのだろうか、そうだとしたら申し訳のないことをしたな、とジークフリートは、心の片隅に僅かな罪悪感を感じて親友の横顔を、ちらりと見た。 すると、再びその遥かに下方から、きゅう、という狐の鳴き声のような音がする。視線を移すと、アカネがさらに頬を赤
大学を卒業後、生命保険会社に新卒で入社したは星海は、今年で入社2年目を迎えていた。 オフィスは多摩市の本社にあり、その中のお客様サービス部名義変更チームに配属され勤務していたが、三船星海(みふねせいかい)は毎日些細な出来事から仕事のミスを繰り返し、課長である阿久津(あくつ)に呼び出される日々であった。 「これ、これ、わ、か、り、ま、す、か?」 阿久津の低い呻き声のような地声が星海の胸に響く。 6列あるシマの中央に座っている阿久津は、自分のデスクの前に立ったまま、小刻みに震えている星海を下から睨み上げている。星海はぐっと拳を握りしめ、声を出せ、謝罪の声を出せ、と自らに問い続けていた。 「……昨日不備照会を出した書類です」 「……『です』じゃねえよ。オレ言ったよね? こことここの不備直しとけって? 同じこと何回言わせんだよ!」 阿久津の怒声がフロアに響くと、仕事のパソコンに集中しようと努力して
海軍司令官のジークフリート・アドルフ(25)と海軍兵、アルべリヒ・ベルツ(25)は船で船員を連れ、ライン川のローレライ岩付近を走っていた。ジークフリートとアルべリヒは同じ田舎村出身であったが、先にジークフリートの方が出世してしまったという経緯があり、そのことにアルべリヒは嫉妬の感情を隠していた。甲板に二人で立っていた時に、アルべリヒはライン川のローレライ伝説についてジークフリートに語り掛ける。ローレライ岩伝説とは、ライン川を通行する船に歌いかける美しい人魚たちの噂で、彼女たちの歌を聞いた者はその美声に聞き惚れて、船の舵を取り損ね川底に沈んでしまうというものだった。二人はただの昔の噂だと一笑する。気が付くとローレライ岩付近にたどり着く。 すると、どこからともなく美しい歌声が折り重なるように…続きを読む
阿賀谷加賀良(あがやかがら)と、阿賀谷阿木弥(あがやあぎや)は村で有名な仲の良い兄弟であった。 冬の寒さ広がる村「あらく」は、少ない人口の中で木材を都へ売る商売が成り立っており、阿賀谷兄弟もそれで生計を立てていた。 「兄者、この檜はこちらでよろしいかのう」 弟の阿木弥が自分の胴ほどの大きさもある丸太を肩に担ぎ、傍らで胡坐をかきながら木肌を鉋で削っている兄・加賀良に問いかける。 頭に巻いた、汗で濡れた白い鉢巻きを少し右へずらすと、加賀良は顔を上げた。 生真面目な顔が阿木弥に向けられる。 「ああ、弟よ。それはそこではなく玄関の脇じゃ、脇。脇に置くのじゃ」 「へいへい、わーったよ。ワキワキ言わなくても一度言えば伝わるぞ」 「お前の頭の悪さを危惧して何度も重ねて申したのじゃ」 「はあ? ……ったく兄者はおらを舐めすぎなのじゃ」 阿木弥が溜息をつき、諦めたように腰を屈めて檜の丸太を持ち上げた。 今日
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