【2007-06-11追記】: 再帰性や事後性に関するこの当時の私の記述は、今から見るとぜんぜん駄目。 あらためて勉強を続けます。 「終わりなき再帰性」は、それだけでは合理的検証の無限ループ(「臆病な発想」)に陥る。 これは、クラッチを失ったエンジンのような状態であり、ひきこもりの不毛な暴走状態そのもの。 そこで、 「終わりなき再帰性」という永久機関をエンジンとし、 事後性(フロイト)の見地から、「事後的な分析」の時間軸を、駆動構造としてそこに仕込む。 「終わりなき再帰性」という《症状=非合理=未規定性》の枠組みに、「事後的な分析」という労働行為をもって同一化する。 終わりなき再帰性という《症状=過剰性》を、「遅れてやってくる労働」の現場として、《自分自身》として、再帰的に生きてみる。 伝統を選ぶように、症状を選ぶ。 事後的な分析において生きられた「終わりなき再帰性」=「終わりなき分析」(