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ブックマーク / sensousouko.naganoblog.jp (7)

  • 歴史を検討する手法で不織布マスク値崩れの背景を検討してみた | 信州戦争資料センター・倉庫 長野県から伝える戦争の姿

    新型コロナウイルス感染拡大に伴って国が全住所に2枚ずつ布マスクを配布する事業に取り組み始めたところ、この布マスク配布のおかげで不織布マスクが値崩れしてきたーとの言説が流布され、首相や官房長官も発言してきました。時期的にはそんな風にも見えますが、果たして実際のところはどうでしょう。これは歴史の風説の検証にも似ています。せっかく現在を体験しているものとして、個人で入手できる範囲のマスクに関する情報を集め、整理し検討してみました。【写真は文と関係なく、おそらく戦前に作られたであろう、軍隊マスクです】 作業は基的に歴史を研究するのと同じで、ある事象に関する情報を集積し相互の関連を検討するという、単純な手法です。今回、末尾に示す170件以上の情報を資料としました。新聞記事と一部ネットから事実関係の記述のみを拾い出して時系列に並べ検討し、マスクの値崩れは中国の輸出緩和が一番の要因であり、布マスク

    歴史を検討する手法で不織布マスク値崩れの背景を検討してみた | 信州戦争資料センター・倉庫 長野県から伝える戦争の姿
    kiku72
    kiku72 2021/01/06
  • 信州戦争資料センター・倉庫 長野県から伝える戦争の姿:戦争中の別荘販売

    「信州戦争資料センター 長野県から伝える戦争の姿」ブログの各種コンテンツを収蔵しています。問い合わせや情報提供は「オーナーへメッセージ」からお願いします。 日中戦争で物資が不足し、あらゆるものが高騰しているタイミングで「格安処分」とPR。戦争景気で儲かっている人たちも大勢いる情勢を見ており、なかなか抜け目ありません。 昭和12年10月、国は企画院を設けて総力戦を意識した物資動員計画の策定を始めています。そして軍需工場の動員が強められる中「4畳半に4人、6畳に6人という過密状況」も生まれていました。こうした状況を打破するため、資材確保の観点から「木造建築統制規則」(昭和14年11月8日)を施行。農家は48坪、一般家屋は30坪以上の新築および増築に許可制を敷いています。 ところが、別荘はこの大きさに当たらないものがほとんどで、いくらでも建てられました。必要な住宅は許可制で縛るのに、不急の別荘は

    信州戦争資料センター・倉庫 長野県から伝える戦争の姿:戦争中の別荘販売
    kiku72
    kiku72 2019/10/08
    “ 戦前は大きな格差社会でした。戦争にはみんなが苦労して協力しあったなどというのは、妄想でしかないこと。”
  • 信州戦争資料センター・倉庫 長野県から伝える戦争の姿:関東大震災で長野県に「不逞鮮人」の話題がどう伝わり、どんな動きがあったか―当時の新聞記事で追う

    大正12(1923)年9月1日に発生した関東大震災の混乱の中で行われた、朝鮮人虐殺。長野県へはどんな情報が流れ、どんな動きがあったのでしょうか。写真は、長野県内の関東大震災第一報となった9月2日付信濃毎日新聞夕刊(1日発行)。当時の信濃毎日新聞で関連記事を探してみました。 <9月4日付夕刊(3日発行)> 最初の朝鮮人関連記事が載ります。「朝鮮人400名捕縛 爆弾を持てるもあり」と見出し。「3日午後3時高崎よりの情報によれば2日午後11時、東京市内の不逞鮮人約400名は捕縛され爆弾若干その他のものを押収されたと」という内容。東京の話を高崎で聞いたという伝聞の伝聞記事で、具体性がありません。 <9月4日付朝刊> 「不逞鮮人脱獄し軍隊と大衝突」という記事が載ります。横浜監獄の「不逞鮮人」が全部脱獄して市内を横行しているので歩兵第34連隊が出動、朝鮮人400人との間に大衝突をしたというもの。衝突し

    信州戦争資料センター・倉庫 長野県から伝える戦争の姿:関東大震災で長野県に「不逞鮮人」の話題がどう伝わり、どんな動きがあったか―当時の新聞記事で追う
    kiku72
    kiku72 2019/09/02
    “当時の信濃毎日新聞で関連記事を探してみました。”
  • 戦争は痛いこと―だから絶対いや! 摘出された銃弾を見るたびに思う

    この銃弾は、中国戦線で戦った兵士が足に受けた敵の銃弾です。直径7・7ミリ、重さ7グラム。5センチの長さの釘3分が、この弾と釣り合う重さ。それが秒速770メートルで打ち出される―。 先端はちょっとつぶれ、弾丸の後端は不規則な形に変形しています。これが体に当たるとどうなるか。内部で放出されたエネルギーが肉体を内側から破壊します。体に残ったのは、かなり速度が落ちてきて、エネルギーが低下していた証拠。幸いでした。 当たり前ですが、戦場ではこれがいっぱい飛び交うのです。やだやだ。誰も傷ついてほしくない。そのためには、全力で戦闘を回避できるようにすること。そこに一番力を注ぐことを、政治家や軍人はとにかく大事にしてほしい。銃を向ける先には、必ず撃たれて苦しむ人がいる。そして撃つ側は、撃たれる側でもある。簡単に戦地への派遣や共同行動などと、口にしてほしくない。 この銃弾を見るたびに、自分もそのため力を注

    戦争は痛いこと―だから絶対いや! 摘出された銃弾を見るたびに思う
    kiku72
    kiku72 2019/05/17
    “。銃を向ける先には、必ず撃たれて苦しむ人がいる。そして撃つ側は、撃たれる側でもある。簡単に戦地への派遣や共同行動などと、口にしてほしくない。” #戦争したがる議員はいらない
  • 「戦争は金儲け」ととらえている奴らばっかり―戦時下で愛国、国策の美名を私益に利用しつくしていた実態

    戦争が起こると戦費を調達しなければいけません。戦前の日は国債を乱発、これを軍需景気と合わせて金儲けの機会に利用したのが、証券会社や保険会社です。こちら、昭和14年4月の山一證券株式会社調査課が用意した資料です。 「支那事変国債一覧表」と「生産力拡充等時局関係社債一覧表」です。資金運用の参考資料として社内向けに用意したものでしょう。生産力拡充等時局関係社債一覧表では、東京電気、三菱重工業、古河電気工業、芝浦製作所、中島飛行機、日製鉄といった有力企業がずらりと並び、4・3%の利回りなど示しています。

    「戦争は金儲け」ととらえている奴らばっかり―戦時下で愛国、国策の美名を私益に利用しつくしていた実態
    kiku72
    kiku72 2019/04/23
  • 徴兵は戦時下でも個々の事情に関係なく一兵卒扱い―総力戦の理解もなかった杓子定規の制度

    大日帝国における軍隊への徴兵は、基的に個々の事情が斟酌されませんでした。大日帝国憲法下の日では、国民は「臣民」であり、天皇の「赤子(子ども)」であるので、個人の事情より国家の事情が優先されたからです。徴兵制に基づく国民皆兵とは、そういうものです。この考えに沿うあまり、優秀な研究者でも一兵卒として投入するという、近代戦、総力戦にはおよそ向かない事態を引き起こしています。こちらは、燃料開発を請け負っていた関西の会社から陸軍に提出された書類「応召職員召集解除方御斡旋嘆願ノ件」です。 大阪帝国大学を卒業して入社した社員の一人が、昭和17年(1942)8月1日から5か月の教育召集によって職場を離れているが、これによってアルコールから高オクタン燃料をつくる研究が滞っていると強調。召集解除を懇願しています。日付が10月ですから、しばらくは待っていたものの、納期も切迫してきているのでしょう。 「誠

    徴兵は戦時下でも個々の事情に関係なく一兵卒扱い―総力戦の理解もなかった杓子定規の制度
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    kiku72 2019/02/09
  • 戦争の犠牲者である傷痍軍人に席を譲らないのは、戦前も戦後も変わらず―専用席をの声も

    昭和23年8月10日発行の長野県内発行月刊誌「信毎情報」は、「忘れられる人々」と題し、グラビアで傷痍軍人の姿をルポしています。こちらは、バス車内の傷痍軍人の写真です。 「かつてわれわれをたたえた彼女たちは冷たくも座席に腰かけ、私はこうして不自由な身体で立っていく…」と写真説明。なんとなく納得できそうに思えますが、こうした反応は決して終戦を境に変わったのではありません。 昭和15年8月13日付信濃毎日新聞の投書を紹介します。(読みにくい漢字を適宜現代字やひらがなに変え、句読点を入れてあります) 「長野電鉄にて ▼このごろの長野電鉄線は、いつも満員です。その日も湯田中からの都会人、しかもリュックサック背負った体位向上?をもって自ら任ずる若き男女でしたが所せまきまでにひろがり、私たちは中途から乗るので腰かける場もありませんでした。▼ちょうど延徳駅と思いました。傷痍軍人章をつけたご老人が足を引きず

    戦争の犠牲者である傷痍軍人に席を譲らないのは、戦前も戦後も変わらず―専用席をの声も
    kiku72
    kiku72 2019/02/01
    こーゆー記事や意見の蓄積があってシルバーシートができたのかも
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