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ブックマーク / www.tapthepop.net (289)

  • ライク・ア・ローリング・ストーン/ボブ・ディラン

    ボブ・ディランが1965年に発表した「Like A Rolling Stone」。 “転がる石のように”というタイトルは、「Lost Highway」という曲からインスピレーションを得たという説がある。 1949年に“カントリー音楽の父”、ハンク・ウィリアムスがカバーしたことで知られるようになったこの曲には、”俺は転がる石。ひとり、迷子さ”という歌詞が出てくる。 ディランはそのフレーズを下敷きにして、短編を書き始めた。それはハイソサエティから転げ落ちた新人女優の物語。結果、その一部が曲の歌詞となっていった。 ディラン最大のヒットとなったこの曲は、6作目のスタジオアルバム『Highway 61 Revisited』(追憶のハイウェイ61)に収録された。 アルバム全体のプロデューサーを担当したのは、後にサイモン&ガーファンクルやジョニー・キャッシュ、レナード・コーエンを手がけるボブ・ジョンスト

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    kiku72 2024/07/20
  • これが本当の80年代サウンド③〜忘れられた洋楽ヒットにもう一度スポットライトを

    これが当の80年代洋楽ヒット・第3回 80年代の洋楽をまとめたネットコンテンツやラジオ番組や雑誌には、いつもお決まりのアーティストやヒット曲だけがラインナップされている。それは同時代のコンピレーションがリリースされても同じこと。今回の企画はそんなありきたりの選曲ではなく、聴くだけで(観るだけで)「ああ! いた!! あった!!」と歓喜するようなアーティストやヒット曲を思いつくままに集めてみた。題して「これが当の80年代サウンド」。そろそろマドンナやマイケル・ジャクソンの呪縛から解放されよう。ドライブや通勤タイム、懐かしの音源探しに活躍すること間違いなし。(選曲/中野充浩) パート1はこちらから。 パート2はこちらから クリス・アイザック「Wicked Game」(1989年リリース・全米6位) カリフォルニア出身のロックシンガー、俳優。1985年にデビュー。1989年にリリースした『He

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    kiku72 2024/07/05
  • シンガー・ソングライターとしての魅力と可能性が試された「返事はいらない」

    ビートルズの来日公演から数年ほどが経過して、「ニュー・ミュージック」と呼ばれる歌が登場してきた。 マスメディアの一部で使われ始めたその言葉は、サウンドからも歌詞からも“新しさ”を感じさせる日語の歌というような意味だった。 1972年から73年にかけて登場した音楽にはそうしたものがいくつもあり、それまではフォークあるいはロックというジャンルに分けられていた。 だがアコースティックギター2とウッドベースなのに、ソウルやブルースを感じさせるRCサクセション、ビートルズやボブ・ディランの影響を感じさせる井上陽水、スターのオーラを放っていた吉田拓郎のポップな曲などには、ニュー・ミュージックと呼ぶに値する“新しさ”があった。 歌謡曲を作っているプロの作詞家や作曲家からは生まれてこない“新しさ”を感じさせる作品は、シンガー・ソングライターの手によって生まれてきた。 そしてアルバムが全体で「ニュー・ミ

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    kiku72 2024/07/03
    このジャケいいな
  • フランク・シナトラのように歌いたかったジム・モリソン

    1960年代後半のアメリカにおけるロック・シーンで、セックスシンボルとなったドアーズのジム・モリソン。 その最期は27歳の若さで不慮の死を遂げるという、破滅的なロック・スターの典型ともいうべき生涯だった。 しかしジム自身はというと、その生い立ちにおいてロックからそれほど影響を受けてこなかったようである。 少年時代から家にこもってを読んでばかりいたというジムは、ウィリアム・バロウズやジャック・ケルアックといったビート・ジェネレーションの文学にのめり込み、その影響は彼の詩にあらわれている。 一方で歌い方はというと、ときおり激しくシャウトすることもあるが、普段はなめらかな歌声で、バリトン・ボイスをソフトに響かせる。 これは1930~40年代に流行したクルーナー唱法という歌い方に近く、ロック・シンガーが用いる歌い方ではない。 ジム・モリソンは、あるときインタビューでレッド・ツェッペリンについて訊

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    kiku72 2024/07/02
  • ロックを歌う2人の詩人、パティ・スミスとジム・モリソンの物語

    2007年にパティ・スミスがリリースしたカバー・アルバム『トゥウェルヴ』には、ドアーズの「ソウル・キッチン」が収録されている。 その理由についてパティは、夢の中で熾天使から「ソウル・キッチンをやらなきゃだめだよ」と告げられ、起きて外に出たらゴミ清掃車のラジオから「ソウル・キッチン」が聞こえてきたからだと説明している。 パティ・スミスが家族に別れを告げ、ニューヨークへとやってきたのは1967年の夏、20歳のときだった。 それまで故郷の工場で働いていたパティだったが、アートの世界で生きていきたいという夢を諦めることができなかったのだ。 敬愛する詩人、アルチュール・ランボーの詩集を手に単身ニューヨークへとやってきたパティは、書店のレジという仕事を見つける。 そして同じ夢を持つ画家の卵、ロバート・メイプルソープと出会うと、2人は意気投合して一緒に暮らすようになるのだった。 パティが初めてドアーズの

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    kiku72 2024/07/02
  • ドアーズの「ハートに火をつけて」から聞こえる、ホセのクリスマスソング

    1960年代半ばからアメリカ西海岸、サンフランシスコやロサンゼルスを中心に起こったフラワー・ムーブメントでは、「ヒッピー」と呼ばれる若者たちがベトナム戦争反対を唱えてロックンロールを聴き、マリファナやLSDによって精神を開放して、平和な理想社会の実現を目指した。 「ラブ&ピース」を合言葉にしたフラワー・ムーブメントは全米から全世界にまで広がり、影響は音楽だけでなく文学やアートにまで及んだ。 そうした時代の精神を象徴するバンドとして、今なお語り継がれているのがUCLAの映画学科にいたレイ・マンザレクと、詩人と評価されるジム・モリソンが結成したドアーズである。 ジムの綴る“詩の世界”と、レイの弾くオルガンを前面に打ち出したロックで、ドアーズは60年代後半からサイケデリック・ミュージックの先頭に祭り上げられて異彩を放った。 1967年に発表されたデビュー・アルバムの『The Doors』は、ロッ

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    kiku72 2024/07/02
  • イギー・ポップの感情を揺さぶったドアーズの破茶滅茶なステージ

    1967年10月22日。その日、ミシガン大学はホームカミングデーを迎えていた。 ホームカミングデーとは、在校生の家族や友人、卒業生らを迎え入れて楽しむ学園祭のようなものだ。校内ではダンスパーティーのほか様々なイベントが催され、通りではパレードが往来したりといった様子で、街全体を巻き込んで大きな盛り上がりを見せていた。 そんな中、体育館では学生バンドによるライブが催されていた。ビートルズのカバーなどが演奏される中、カップルが踊ったりしながら楽しい一時を過ごしていた。 そこにスペシャルゲストとして登場したのが注目の新人バンド、ドアーズだ。5月にリリースしたデビュー・シングル「ハートに火をつけて」が大ヒットした彼らは、若者を中心に人気を集めており、体育館には多くのファンが詰めかけていた。 その1人が当時20歳だったイギー・ポップだった。 イギーはもともとミシガン大学の学生だったが、ブルースとドラ

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    kiku72 2024/07/02
  • あえて時代考証を無視してギブソンES-345TDCを使った映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』

    Home Extra便 あえて時代考証を無視してギブソンES-345TDCを使った映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』 - TAP the POP 老舗のギター・ショップ「Norman’s Rare Guitars」をロサンゼルスで営むノーマン・ハリスが書き下ろした自伝には、彼から直にギターを買っていたジョージ・ハリスン、ボブ・ディラン、ジョン・フォガティ、そしてもっとも多くの取引をしたザ・バンドのロビー・ロバートソンなどとの出会いから、さまざまなエピソードが詳細に描かれていて読み応えがある。 そのなかで面白かったのは映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』に、赤いギブソンの「ES-345TDC」を貸し出したときのエピソードだ。 1985年から30年前の過去に旅立つことになってた主人公、マイケル・J・フォックスが扮するマーティ・マクフライが、指を負傷したギタリストの代理としてダンスパーティ

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    kiku72 2024/07/02
  • これが本当の80年代サウンド①〜忘れられた洋楽ヒットにもう一度スポットライトを

    これが当の80年代洋楽ヒット・第1回 80年代の洋楽をまとめたネットコンテンツやラジオ番組や雑誌には、いつもお決まりのアーティストやヒット曲だけがラインナップされている。それは(大人の事情もあってか)同時代のコンピレーションがリリースされても同じこと。今回の企画はそんなありきたりの選曲ではなく、聴くだけで(観るだけで)「ああ! いた!! あった!!」と歓喜するようなアーティストやヒット曲を思いつくままに集めてみた。題して「これが当の80年代サウンド」。そろそろマドンナやマイケル・ジャクソンの呪縛から解放されよう。ドライブや通勤タイム、懐かしの音源探しに活躍すること間違いなし。まずはパート1。ちなみにパート10くらい続く予定。(選曲/中野充浩) ロマンティックス「Talking in Your Sleep」(1983年・全米3位) デトロイト出身のロックンロールバンド。これぞアメリカン・

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    kiku72 2024/06/27
  • 「帰ってきたヨッパライ」という”変な歌”で登場したザ・フォーク・クルセダーズ

    1960年代の後半から70年代にかけて、ラジオは若者たちにサブカルチャーを発見して紹介する役割を果たした。テレビは一家に一台くらいまで普及していたが、音楽に興味がある少年少女や若者たちはみんなトランジスタ・ラジオを聴いていた。 忌野清志郎が「トランジスタ・ラジオ」の歌詞に書いた通り、心のアンテナさえ感度が良ければ、小さなラジオは世界中からのメッセージをキャッチできたのだ。 アメリカ西海岸のベイエリアの南で歴史的なモントルー・ポップ・フェスティバルが開催され、オーティス・レディングとジャニス・ジョプリンがスターダムを駆け上がったのは1967年の6月だった。 それから半年後、モンキーズの「デイ・ドリーム」が全米チャートの1位を快走していた12月10日、飛行機が墜落する事故にあって、オーティスが26歳の若さで亡くなったという衝撃的なニュースが飛び込んできた。 ちょうどその時期に関西のラジオ局を経

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    kiku72 2024/06/18
    加藤和彦の映画がらみで最近ラジオで聴いたけど2024年聴いてもやっぱり変でおもろかった
  • ポールが遭遇したある不思議な出来事

    僕のことを忘れないでおくれ 可愛い僕のマーサ ポール・マッカートニーにはミューズ(彼に付き添う音楽の女神)がいた。ポールはその存在にマーサと名づけ、自らが飼っていた雌犬をマーサと呼んでいた。 物語は、ある日の朝、ポールが友人と一緒に愛犬マーサの散歩に出かけた時に起こった。 丘をのぼる散歩コース。ポールは友人と議論に夢中になっていた。彼らは丘の上から眺める景色の美しさについて語り合った後、「神は実在するかどうか」について議論していたのだが、気がつくとマーサの姿が見えなくなっていたのだ。 可愛い僕のマーサ 僕がずっとおしゃべりしてたからって どうか、僕のことを覚えていてくれよ 忘れないでおくれ、可愛い僕のマーサ 「マーサ・マイ・ディア」の歌詞は、友人とおしゃべりに夢中になっている間に迷子になったマーサ、という設定以外に説明できないものだ。そして、マーサを探そうと振り返ったポールは、コートを着込

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    kiku72 2024/06/17
  • 悪夢のような状況の中で歌い続けたポール・マッカートニー

    アフリカ大陸の東部に位置するエチオピアで、干ばつによる深刻な飢饉が発生したのは1984年のことだった。 そのことを知ったブームタウン・ラッツのボブ・ゲルドフは様々なミュージシャンに声をかけ、チャリティー・プロジェクト、バンド・エイドを発足する。 その年の12月3日にリリースされたシングル、「ドゥ・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマス」にはポール・マッカートニーやボノ、デヴィッド・ボウイ他、20組以上が参加し、300万枚を超える大ヒットとなった。 その流れで、次にボブ・ゲルドフはチャリティ・コンサートの開催に向けて動き出す。バンド・エイドに参加していたポールのもとにも、ボブから出演依頼の電話がかかってきた。 ところがこの頃のポールは2つの問題を抱えていた。 1979年の12月にウイングスとして最後のステージに上がって以来、ポールは5年以上もライヴと縁のない日々を送っていた。それというのも、1980

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    kiku72 2024/06/17
  • ソ連でもっとも成功したロック・ミュージシャンとなったポール・マッカートニー

    1987年の春、ポール・マッカートニーは時折スタジオにミュージシャンを招いては、ロックンロールのジャム・セッションを開いていた。 そのほとんどはセッション・ミュージシャンだったが、時にはエルヴィス・コステロやジョニー・マーなども顔を出したという。 セッションを開いた理由のひとつは、前年にリリースした6枚目のソロ・アルバム『プレス・トゥ・プレイ』が、ポールのソロ作品の中で過去最低の売り上げを記録したことだった。 自分が進むべき方向を見失ったポールは、自身のルーツであるロックンロールに戻ってみようと思ったのである。 セッションではエルヴィス・プレスリーやリトル・リチャードといったポールが影響を受けたロックンロール・スターの楽曲はもちろん、1957年にジョン・レノンのバンド、クオリーメンに入るときのオーディションで披露したエディ・コクランの「トゥエンティ・フライト・ロック」なども演奏された。 そ

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    kiku72 2024/06/17
  • 祖国への想いを歌にした「バック・イン・ザ・U.S.S.R.」

    ※このコラムは2014年10月に公開されたものであり、かつてグルジアと呼ばれた国は現在ジョージアが正しい表記となっておりますが、文中での表記は当時のままとなっております インドのリシケシュに滞在していたポール・マッカートニーは、ジョージ・ハリスンに誘われてやってきたものの、どこか退屈していた。 彼は瞑想にではなく、やはり歌を作ることに時間を費やした。 母国であるイギリスを離れてインドで時間を過ごしていたこともあり、遠く祖国を離れた主人公が故郷へ帰る歌のことを思い返した。そのひとつがチャック・ベリーの「バック・イン・ザ・USA」だった。 ある朝、ポールが「バック・イン・ザ・U.S.S.R.」の下敷きとなるメロディーを思いつき、朝の場所へと降りてくると、そこにいたのはビーチボーイズのマイク・ラブだった。 彼もまた、グルのマハリシに超越瞑想を学ぼうとしていた。だが、ポールが楽曲のアイディアを

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    kiku72 2024/06/17
  • 新人アーティストと間違えられた、ポール・マッカートニー 〜衰えぬ音楽の探究心が生んだカニエ・ウエストとのコラボレーション〜|ミュージックソムリエ|TAP the POP

    ビートルズとしてデビューして以降、50年以上ポップ・ミュージックの世界で活躍し続けているポール・マッカートニー。 時代に応じて新しい音楽を追求してきた彼は、2015年に革新的なコラボレーションによって世間を驚かせた。 それは、ラッパーであるカニエ・ウエストとの共作である。 ポールがビートルズとともにロックの新たな可能性を切り開いたように、カニエも既存のヒップホップの枠にとらわれないような実験的な楽曲を作り出すアーティストであった。 ポールによれば、ある日カニエのマネージャーから電話がかかってきたのだという。 コラボレーションの依頼に最初こそ驚いたが、それよりも好奇心が勝り快諾するのだった。 「最初はちょっと不安だったよ、だって大失敗に終わるかもしれなかったからね。でも彼が何をするつもりなのか、どうやって作業をするのかに興味をそそられたんだ」 こうしてポールは、長いキャリアの中で初めてラッパ

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    kiku72 2024/06/17
  • Yesterday Once More〜ドラム演奏の実力が発揮されたレコーディングエピソード

    若い頃は好きな曲を待ちながら よくラジオを聴いていたわ その曲がかかると一緒に歌ったりして 笑顔になれたの 1983年2月4日、カレン・カーペンターは32歳でこの世を去った。 死因は摂障害がもたらした心不全だった。 カーペンターズといえば、彼らが活躍した1970年代当時、ホワイトハウスやディズニーランドでの演奏を許された唯一のミュージシャンだった。 ビートルズのポール・マッカートニーは、彼女の歌声とカーペンターズの音楽についてこう賛美している。 「世界で最高の女声であり、旋律が美しく、豊かで、そして独特だ。」 この「Yesterday Once More」は、カーペンターズの12枚目のシングルとして1973年に発表されたもので、彼らの楽曲の中でも最もセールス的に成功した曲と言われている。 アメリカではビルボードチャートの2位にまで駆け上がり、日ではオリコン洋楽チャートで約半年間1位

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    kiku72 2024/06/13
  • 洗練された楽曲が生まれた時代、シンガーソングライターたちが台頭した70年代

    ジェイムズ・テイラー、エルトン・ジョン、キャロル・キング、ギルバート・オサリバン、ビリー・ジョエル、ジョン・デンバー…そしてブルース・スプリングスティーン。 彼らは皆、1970年代のミュージックシーンにおいてその才能を開花させた“シンガーソングライター”である。 1970年代…それはミュージシャンとリスナーの年齢の幅がどんどん広がりつつあった時代。 ミュージシャン達は30歳を超えても引退しようとせずに、自分の年齢に見合う音楽を作るようになった。 1950年代にエルヴィスを、1960年代にはビートルスやボブ・ディランを聴いて育ってきた若者達は大人になってもロックを聴き続けたのだ。 いつのまにか“Don’t trust anyone over 30(三十歳以上の奴は信じるな)”という言葉は忘れ去られていった…。 ロックはティーンエイジャー達の“反抗の音楽”から、大人向けの洗練された娯楽までを広

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    kiku72 2024/06/13
  • ザ・クラッシュの名曲「ハマースミス宮殿の白人」がリリースされた日

    「いいメロディーは常に勝ち残る、そしていいメロディーにいいメッセージが乗っていれば、常にいつの時代でも絶対に勝ち残る。これは雑多とした録音だった。マーキーの裏にあるスタジオの薄暗い中でこそこそと録音してた。外で行列を作る大衆を避けながら、見つからないように車の後ろにうずくまったりしてね。でもそこから素晴らしい曲が出来あがった。呼びかけるような逸話を歌に入れたジョーのやり方はみんなの心を打ち、人々にとっての素晴らしい証言となった。ジョーの葬式でこの曲を流したのはとてもいい事だと思ったよ。」 (ジョニー・グリーン/当時のクラッシュのツアー・マネージャー) 1978年6月16日、ザ・クラッシュは「(White Man) In Hammersmith Palais(ハマースミス宮殿の白人)」という楽曲をリリースした。 7インチシングルとして発表されたその歌のクレジットには作詞作曲:ジョー・ストラマ

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    kiku72 2024/06/13
  • 私たちの望むものは〜“フォークの神様”と呼ばれた男が紡ぎ出した強烈なメッセージソング

    岡林信康の実家は教会だった。 父親は新潟県の出身で30歳まで新潟で農業をしていたという。 しかし、閉鎖的な村社会が嫌になって故郷を飛び出し滋賀県の紡績工場に就職。 その時期に宣教師に出会い牧師となって大阪の神学校に通った後、近江八幡市の田んぼのど真ん中に西洋建築の教会を立てた。 1946年7月22日、彼はそこで生まれた。 近江兄弟社中学を出て、滋賀県立八日市高等学校を経て、1966年に同志社大学神学部入学。 彼はそれまで熱心なキリスト教信者であったが、実家の教会の不良少女の扱いに疑問を感じ、その後社会主義運動に身を投じる中で、フォークシンガー高石ともやに出会いギターを始める。 1968年、山谷に住む日雇い労働者を題材とした「山谷ブルース」でビクターよりレコードデビューを果たす。 翌年までに「友よ」「手紙」「チューリップのアップリケ」「くそくらえ節」「がいこつの歌」などを作り、その内容から、

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    kiku72 2024/06/13
  • 音故知新④〜“ロックンロール”と“ロック”の分岐点

    そもそも「ロック」という言葉が「ロックンロール」と区別されて使われるようになったのはいつからだろうか? 諸説ある中で、アメリカでは“1965年7月25日にロックが誕生した”と言われている。 一体この日になにがあったというのだろう? ──1965年7月25日、アメリカのロードアイランド州で行われた第5回ニューポート・フォーク・フェスティバルに出演したボブ・ディランのスーテージを観ていた音楽評論家ポール・ネルソンは、その場で次のようなメモを残したという。 ディランの新しいスタイルにノックアウトされた。 彼がプレイした音楽は、最近聴いたあらゆるジャンルの中でも最もエキサイティングなものだった。 「そのギターを始末しろ!!!」 そこにいた観客は、ディランがバンドを従えてエレキクトリックギターで演奏したことに対して激しいブーイングを浴びせていた。 だが、その後に私がこれまで観たことがないようなドラマ

    音故知新④〜“ロックンロール”と“ロック”の分岐点
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    kiku72 2024/06/13