kikuutanのブックマーク (1,521)

  • 自因自果の視点を持って、私が世の中を変えると覚悟する - 親鸞に学ぶ幸福論

    【自因自果(1)】 段取りが悪い上司に一人の部下がイライラし、かげで不平を言っています。 もう一人の部下は上司仕事を進めやすいよう、サポートすることに努めています。 当然、出世するのは後者です。 部下の意見を聞いてくれないワンマン上司がいます。 その下で働く部下にも二通りあり、一つはやる気をなくし、いやいや順うタイプ、 もう一つは自分の意見をとりあげてもらえるよう、どう働きかけたらよいか、考えるタイプ。 これも当然、頭角を現すのは後者です。 オレが苦しむのは上司のせいだ、 上司が考えを改めない限りオレの運命は変わらない、と思えば、 出てくるのは怒りや不平、うらみばかりになって、 その思いは上司にも伝わりますから、関係はどんどん険悪になっていくでしょう。 夫婦関係でも同じです。 なんで直してくれないのか、と奥さんが怒りのあまり「言ったよね!?」と目くじら立てると、 夫も、しまった、とは思い

    自因自果の視点を持って、私が世の中を変えると覚悟する - 親鸞に学ぶ幸福論
  • すべての人はお金のことで悩んでいると説くブッダ - 親鸞に学ぶ幸福論

    【財欲(1)】 仏教に説かれる五欲の一つである『財欲』に振り回されている人間の姿を お釈迦さまはこのように仰っています。 「尊となく卑となく、貧となく富となく、少長・男女ともに銭財を憂ふ」(大無量寿経) 「尊となく卑となく」とは、 高貴な血筋だと仰がれる人も、卑しい出自だと見下げられる人も、 何も変わりもなく、みなお金のことで悩んでいる、ということ。 「貧となく富となく」とは、 貧しい人も、裕福な人も、お金のことで頭を抱えている、ということです。 貧しい人だけが悩んでいるのではない、 富を有する人は、そのお金を盗まれやしないか、無くしたらどうしようと 維持や管理で悩んでいますし、 税金や相続など、貧しい人にはない苦しみも襲ってきます。 「少長・男女共に」とは、若者も、年長者も、男も、女も、ということです。 若者は経済的な成功を夢見て目の色変えて働きますが、 お金のことでムキになるのは若者だ

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    kikuutan 2020/02/02
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  • 見方を変えると問題点が美点になる - 親鸞に学ぶ幸福論

    【一水四見(1)】 「人の顔色を気にせず行動できる強い人間になりたい」 これは多くの人の望みです。 こんなことをしたら人はどう思うだろう、気分を害すのではないか、嫌われたらどうしようと 私たちはいつも人目を気にして悩んでいるので、 「人は人、オレはオレ」で信念を貫き通せたらどんなにいいだろう、とあこがれます。 しかし考えてみてください。 もしあなたがそういう人だったとしたら、あなたと接した相手はどう思うでしょう。 信念のある頼もしい人だ、と思ってくれる人ばかりではないと思います。 この人は平気で人の嫌がることを言う失礼な人だ、空気の読めない人だ、 とレッテルを貼られるかもしれません。 そうなれば自分の周りからだんだん人がいなくなり、 そこでまた困ることが出てくることになります。 そういう意味では人の顔色が気になる人というのは、 持ち前の鋭敏なセンサーで相手の気持ちを察知し、 人間関係を損な

    見方を変えると問題点が美点になる - 親鸞に学ぶ幸福論
  • 臨死体験は本物か、幻覚か - 親鸞に学ぶ幸福論

    【無明の闇(1)】 臨死体験をした人が、あの世を見てきた、死後はこうだった、と語るのを見聞きして思うのは、 「あなた、それは死後を経験したとはいえんでしょう?」ということです。 だって語っているその人は現に死んでいないのですから。 臨死体験者に、 「あなたが見たのは当に死後だったとなんで言い切れるのですか?」 「幻覚ではないという明確な根拠は?」 と聞きたくなります。 美しい花畑だった、とか、すでに亡くなった好きな人がニコニコ笑って迎えてくれた、とか、 死後が明るいイメージで語られることは多いですが、 死の不安、ストレスを軽減しようと脳内物質が働くからという説もあります。 脳内物質が死の恐怖を和らげるから、死に顔がおだやかになるのかもしれません。 文化圏によって、あるいはその人の信仰によって、見える景色が違うのも、臨死体験の特徴の一つです。 キリスト教の土壌で生きた人はダンテの「神曲」に

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    kikuutan 2020/01/29
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  • 『心は蛇蠍のごとくなり』と告白された親鸞聖人 | 生きる意味が分かる親鸞の教え

  • 心と口・身体の関係は川の上流と下流 - 親鸞に学ぶ幸福論

    【意業(3)】 前回、前々回と仏教は心を重視するという話を続けています。 今日はその3回目です。 「心で何を思っていようが、自制して口が体に表さなければいいじゃないか」 という意見もあります。 確かに心で考えていることは言葉や行動に移さなければ 誰にも知られることはありませんし、 迷惑もかけることもないのだから、 そんなに問題視しなくていいと思いがちです。 しかし問題は「思っていることを口にしなければ、行動に移さなければ」という条件が付き、 これがなかなかできないのです。 心で何を思っているか、その人の言動にどうしても現れてしまうのです。 「目は口ほどに物を言う」とのことわざもあるように、特に目はその人の心が表れます。 窓が開いていて他人の家の中の様子が見えてしまうことがありますが、 まさに「目は心の窓」で、目を見るとその人の心の中が見えてしまうことがあります。 今気分を害したな、とか、苦

    心と口・身体の関係は川の上流と下流 - 親鸞に学ぶ幸福論
  • 意業(心)に一切の責任があり、すべてを生む元であると説く仏教 - 親鸞に学ぶ幸福論

    【三業(2)】 心で思ったことが口に表れ、体に表れる、だから心が一番大事である、 と仏教で説かれていることを前回から話をしています。 今皆さんがこの文章を読んでおられるのは体の行いですが、 読もうと思ってクリックした、その読もうと思われたのは心の行いです。 この文章を読んでおられる今も、 心がこの後も読もうと思われているから、今この文章を読んでおられるのです。 読もうという心がなかったら、たとえ途中まで読んでも、クリックして違うページに飛んでしまうでしょう。 今私がこうしてこういう文章を書いているのも、 心でこういう文章を書こうと思って書いているのです。 心で思わないことが体に現れることはありません。 今年一年どんなを読んだか、どんなテレビ番組は見たか、どんな人とどんな話をしたか、 もっと言えば、今自分の住んでいるところも、している仕事も、結婚相手も、 その一切は自分の心が決めたことです

    意業(心)に一切の責任があり、すべてを生む元であると説く仏教 - 親鸞に学ぶ幸福論
  • 心と口と身体の三つの行為、三業で人を判断する仏教 - 親鸞に学ぶ幸福論

    【三業(1)】 仏教では、その人が善人か悪人か、心と口と体の三方向から判断します。 身体で何をやっているか、やっていないか。 具体的にいえば、人を殺したとか、物を盗んだとか、不倫したとか、親切したとか、裏表なく努力しているとか、などです。 口で何を言っているか、言っていないか。 二枚舌を使ったり、悪口言ったり、ウソをついたり、あるいは温かい言葉をかけたり、感謝の言葉を述べたりすることです。 心で何を思っているか、思っていないか。 これも具体的にいえば、あの人死ねばあれはオレの物になるのに、とか、あいつは何かひどい目に遭ってくれたらいいのに、とか、どうかあの人が元気になってほしいと切に思うとか、そういうことです。 この心と口と体の三つの行為から人間を判断します。 それでこの三つの行為を『三業』といいます。 中でも仏教が最も重視するのは心の行いです。 ここは世間一般と仏教の大きな違いの一つです

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  • 羽生善治名人の向上心に感銘を受けた - 親鸞に学ぶ幸福論

    【精進(1)】 「AIが台頭して将棋界が進歩した今、残念ながら私のこれまでの経験はほとんど生きません」 これは通算勝利歴代一位の将棋棋士、羽生善治名人がインタビューで語っていた言葉です。 こう言えてしまうところに、 長年にわたってトップで居続けることができる羽生名人の非凡さがあるように感じます。 なにしろ国民栄誉賞を取るほどの棋士です、 ふつうなら「おれはできるんだ」と思ってしまいますし、 過去こうしてオレは勝ち続けてきたんだ、との自負心もあるだろうし、 なかなか新しいことに挑戦できなくなると思うのです。 ところが羽生名人は「これまでの経験はほとんど生きない」と自己の現状を受け止め、 「最新の研究結果を知る努力がすごく問われるようになりました。AIの手を自分なりに理解し、納得することが大事です」 と今なお、AIソフトを前に格闘し、現状を打破しようとしています。 「慣れない環境に極力身を置き

    羽生善治名人の向上心に感銘を受けた - 親鸞に学ぶ幸福論
  • 貪欲(とんよく)で造る恐ろしい悪業を解説する | 生きる意味が分かる親鸞の教え

  • 人生の目的と人生の目標、生きがいとの違いとは - 親鸞に学ぶ幸福論

    人生の目的(3)】 前回と前々回のメルマガで、 人間が生きるには希望が必要であり、 その明かりを失うと生きていけない存在でもあることを、 種々の例を引いてお話ししてまいりました。 さてそのことを踏まえた上で、ここで考えていただきたいことがあります。 それはこういった「生きる明かり」「生きる希望」「生きがい」は、 「人生の目的」(人間に生まれてきた目的)と言っていいのかどうか、ということです。 江戸時代の農民は正月や村祭りの「ハレ」の日を明かりに「ケ」の地道な日常を過ごしましたが、 彼らがそうしてがんばって生きていった目的はどこにあったのでしょう。 私たちはGWの10連休の旅行や夏休みのコンサートを楽しみに目の前の仕事を乗り切りますが、 そのように働いて収入を得て生活しているのは、そもそも何のためなのでしょう。 晩酌しながら「これが楽しみで生きているようなものですわ」と言う人は、 晩酌を生

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  • アウシュビッツで人間が見せた精神力に感服 - 親鸞に学ぶ幸福論

    人生の目的(2)】 人間は生きる明かり、希望をなくしては生きてはいかないことを 前回のメルマガでは、さまざまな例を引いてお話ししました。 今回は、明かりや希望など許されぬ極限状態であってもそれは同じであることをお話しします。 ナチスのアウシュビッツ収容所でも明りを見つけて懸命に生きる姿が 心理学者のフランクルがアウシュビッツ収容所での体験記を記した『夜と霧』に書かれています。 それは以前ブログでも紹介しました。 http://kikuutan.hatenablog.com/entry/010712ausyu このエピソードは、人間がいかに『希望』を生きる力としているかを示しています。 では終わりの見えない収容所で、フランクル自身はどうして生き残ることができたのか、 彼の明かりは何だったのか、これが実に興味深いものでした。 それは彼自身が「トリックを弄した」と書いているように、 想像力とい

    アウシュビッツで人間が見せた精神力に感服 - 親鸞に学ぶ幸福論
  • 生きる明かり、生きがいがなければ生きられない人間 - 親鸞に学ぶ幸福論

    人生の目的(1)】 人間は生きる明かり、希望をなくしては生きていけません。 マラソンランナーが給水場で定期的に水分を補給しなければ42.195キロを完走できないように、 人間は未来に明かりがなければ生き続けられない存在なのです。 江戸時代の農村にも「ケ」と「ハレ」がありました。 「ケ」はいつもの日常、地道な野良仕事。 「ハレ」とは正月や村祭りの日、この日ばかりはごちそうをべ、酒を飲み、無礼講では目を外す楽しい日です。 「もういくつ寝るとお正月」という歌があるように、 村人は「ハレ」の日を明かりに指折り数えながら「ケ」の日を過ごしました。 代わり映えのない「ケ」の日を黙々とこなすことができるのも、 「ハレ」の日を希望にし、明かりにしているからなのです。 「あー、疲れた」と今年もう何回つぶやいたことだろう、 人間は生きる明かり、希望なくしては生きていけない存在です。 生きるにはどうしても希

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  • 若きアスリートたちに教えられること - 親鸞に学ぶ幸福論

    【忍辱(1)】 以前オリンピックを見ていて思ったことですが、 柔道の判定でも、物言いがついて勝者と敗者が逆転してしまったり、 体操のポイントでも抗議により総得点が入れ替わったり、というのが結構あります。 審判団の問題、とまでいかなくても 極限まで研鑽を重ねたアスリートたちのしのぎ合いなので 当にちょっとした判定のあやとか零コンマ零何秒の差で 歴然と結果が決められてしまっています。 何年もこの時のこと一つにかけてきたのですから 「こんなことのために」と どんなにか悔しい事態もあると思います。 そんな中でも偉いなと感心するのは、 駄々をこねたり、仏頂面でになったりせず 終われば自分を負かした相手と握手し、 インタビューでは言葉少なに「負けは負けです」と言い、 表彰台に登ればどんなに悔しくても笑顔は作るところです。 自分を支えてくれたコーチ、 オリンピックに出たくても出れなかった選手たちのこと

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  • 人間を時の旅人に譬える仏教 | 生きる意味が分かる親鸞の教え

    kikuutan
    kikuutan 2020/01/10
  • 進化して能力が拡張するのが人生の目的か - 親鸞に学ぶ幸福論

    人生の目的(1)】 人間の脳波と機械をつなげる研究が進んでいることに驚いてしまいました。 センサーを頭に装着し、腕を上げたいと念じるだけで、 脳波を検出して意図を分析して信号に変換し、 義手や義足を操作できるようになるというのです。 脳梗塞やALS(筋萎縮症)などの半身不随で苦しむ人の大きな希望となる朗報です。 他にもAI搭載の自動運転では、乗っている人が生きる危険を察知すると脳から車に信号が送られ、停止するようになるそうです。 また画面にタッチしなくても自己の意思を、パソコンやスマホの画面に文字で表示できるようにもなるとのこと。 電車に乗っている時に手がふさがった状態でも、遅刻だと思った時、 「電車の遅延で遅れます」と文章を作成し、メールで送れるようにもなる、のです。 大阪大学の工学博士でアンドロイドの研究で知られる石黒浩氏は、 かかる機械と人間の融合を「人間をさらに高みに連れて行く」

    進化して能力が拡張するのが人生の目的か - 親鸞に学ぶ幸福論
    kikuutan
    kikuutan 2020/01/09
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  • 仏法の『法』とはどんな意味か - 親鸞に学ぶ幸福論

    【法(1)】 仏教では三世十方を貫く真理のことを『法』といいます。 『三世』とは過去世、現在世、未来世のことで 「いつでも」ということです。 『十方』とは東西南北上下四惟のことで 「どこでも」ということです。 いつでもどこでも変わらない真理、 古今東西を通じて普遍の真理を『法』といいます。 『法』と名が付くものに、憲法、法律、交通法規などがありますが、 私情や気分で変えてはならない、一つのものさしとなるものに 「法」という字が使われているのがわかられると思います。 交通法規で信号機の赤青黄色の意味が毎日コロコロ変わったら大事故が頻発しますし、 法律でも、明日から年金支給は止めますとなったら社会は大混乱ですから、 そうそう変えてはならないものです。 とはいえこれら憲法、法律、交通法規は三世十方を貫くものではありません。 スマホしながらの「ながら運転」は12月より罰金三倍、一発で免停、 それで

    仏法の『法』とはどんな意味か - 親鸞に学ぶ幸福論
  • 快楽のかげにも無常の響きがこもっている - 親鸞に学ぶ幸福論

    【快楽(1)】 コカインなどの違法薬物は、 理性を司る大脳皮質よりももっと脳の真ん中にある中枢に強烈な快感をドカンとすり込むそうで、 理性でやめようと思っても、やめられる代物ではないようです。 一瞬にして多幸感、爽快感が心身共にぱーっと広がり、 一気に不安は除去され「人生最高!!」となります。 しかしその快感は薬の効き目がなくなるとすぐに消えてしまい、 その後は長い倦怠感、イライラや不安が続き、 さらに薬物の快感を渇望するようになります。 薬物依存の恐ろしさはラットの実験でよく知られます。 ラットの脳に電極をつけ、ペダルを押すだけで興奮の感覚が生み出せるようにし、 美味しいべ物をもらうかペダルを押すか、ラットたちに選択肢を与えると ラットはひたすらペダルを押し続け、とうとう空腹と疲労で倒れてしまうというのです。 田代まさしが、覚醒剤依存症の恐ろしさを訴える講演で 「覚醒剤があれば何でもで

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    kikuutan 2020/01/04
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  • 説得とは、得を説く、と読む。決して押しつけてはならない - 親鸞に学ぶ幸福論

    【自利利他(1)】 先日報道されていたことです。 あるコンビニのオーナーが、元日は営業しないという意思を社に伝えました。 アルバイトが集まらず、客も少なく、とても自分の身体が持たないからというのが理由でした。 社は、それは契約に反する、とさっそく社員に「オーナーを説得してこい」と命じました。 ところがオーナーは頑なで、説得に応じないとのこと。 最近よく話題になるコンビニ長時間労働問題です。 さてこの報道でも出てきた「説得」という言葉、あまりいい響きがありません。 「説得する」立場でも疲れるし、嫌われるし、 「説得される」立場ならおもしろくないし、憂になるし、で、 できれば説得するのもごめんだし、説得されたくもない。 そう思ってしまうのは、「説得」と聞くと、 相手をこちらの意図通りに動かせるためにあれこれ話をする、 というニュアンスがあるからでしょう。 来「説得」とは、字の意味からい

    説得とは、得を説く、と読む。決して押しつけてはならない - 親鸞に学ぶ幸福論
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    kikuutan 2020/01/02
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  • 本年もよろしくお願いいたします - 親鸞に学ぶ幸福論

    迎春 昨年中はメルマガ、読者の方々から、 数々の励まし、感想、叱咤のメール、まことにありがとうございました。 2010年1月から「まぐまぐ!」のメルマガを書き始めたのが最初なので、 これで10年になります。 「10年、偉大なり。20年、恐るべし。30年、歴史になる」との中国の格言があります。 もちろん10年といっても、私の文章など、 もともと文才などないところに、 やっつけ仕事で書いてしまうことも多く、 偉大とはとても言える代物では到底ありませんが、 それでも続けることだけは続けてきて、 最初は8人から始めたのが、現在は7000人近くの人に配信するまでになりました。 なぜ10年間続けられたかといえば、 それは間違いなく読者の方のおかげです。 読みたいと待ち望んでくださる方、 人生が変わったとまで言ってくださる方、 他の仕事で滞りがちになるときも「どうしたのでしょうか」とメールがあり、 家族

    本年もよろしくお願いいたします - 親鸞に学ぶ幸福論
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    kikuutan 2020/01/01