ブックマーク / www.kouhei-s.com (6)

  • 法勝寺  巨大で奇抜 八角九重塔はなぜ建てられたのか ① - こうへいブログ 京都案内と文章研究について  

    院政 平安時代、白河上皇に「天下の三不如意(ふによい)」という有名なエピソードがあります。 賀茂川の氾濫、双六の目、延暦寺の僧兵、この三つだけは自分の意のままに、思い通りには、どうしてもすることが出来ないと上皇が嘆いたという話です。 ですがこれは、逆に、その他のことは全て思い通りに、意のままに動かしていたという裏返しでもあります。 つまり、この時代の上皇という絶対的権力、「規制」がまったくない「院政」という執行権を白河上皇は手にしていたということです。 これが天皇という立場だと律令の下に、摂政、関白、左大臣、右大臣が補佐しているので、そうそう勝手な振る舞いは許されません。 でも、上皇というのは、血縁に由来する権力機構です。皇子に天皇の位を継承して、上皇自身は相談役となるのですが「権威」だけは残ります。 その「権威」を持って、国政の最高権力を握り、この国を統治するシステムこそが、当時の「院政

    法勝寺  巨大で奇抜 八角九重塔はなぜ建てられたのか ① - こうへいブログ 京都案内と文章研究について  
  • 北大路魯山人  美食俱楽部による至高のメニュー そしてパブロ・ピカソとの出会い - こうへいブログ 京都案内と文章研究について  

    倶楽部 陶芸、篆刻、書画とマルチにその才能を発揮させた北大路魯山人(ろさんじん)。 美家という称号をこの国で初めて獲得したのも、他ならぬ彼だったのではないでしょうか。 大正10年、魯山人は38歳のときに、経営していた美術店の2階に会員制割烹「美倶楽部」を開店しています。 それは、下の階の美術店に置かれていた古陶器を使って、魯山人みずからが手料理をふるまうといった贅沢な趣向を凝らしたものでした。 その場で注文を聞いて料理人がこしらえるという外の形態というのは、そう、大正の終わりから昭和にかけての、ちょうどこの時代にやっと始まったんですね。 なぜなら、この頃から都市ガスが広く普及して迅速に火が使用できるようになったからで、それまでは、いちいち炭を熾さなければならなかったので、とても客の注文に応えることなど出来なかったのです。 魯山人がこの時代の変化に迅速に対応して割烹経営に取り組んだ

    北大路魯山人  美食俱楽部による至高のメニュー そしてパブロ・ピカソとの出会い - こうへいブログ 京都案内と文章研究について  
  • 六孫王神社  臣籍降下と源氏のルーツ  - こうへいブログ 京都案内と文章研究について  

    なぜに臣籍降下は始まったのか 私たちは「源氏」というと、源頼朝・義経など、「武士の源氏」を強くイメージします。 実は「源」という姓は、皇族、つまり天皇一族が「臣籍降下」(しんせきこうか)する際に与えられた姓であり、それは嵯峨天皇のときに始まりました。 皇族にはもともと姓がないために、(皇族を離れ)臣下の籍に降りるものには、同時に姓を与えたわけです。 嵯峨天皇から始まり、はるか先の後二条天皇に至るまで、その皇子や皇孫が源姓を賜ったんですね。 そのなかでも特に名高いのが、やはり、嵯峨源氏・清和源氏・宇多源氏・村上源氏といったところでしょうか。 源姓の始まりと言われる「嵯峨源氏」、それは、平安京遷都を行った桓武天皇の皇子である嵯峨天皇のルーツです。 嵯峨天皇は多くの皇子皇女を臣籍降下させて源姓を与えているのですが、ではなぜ、この時代から臣籍降下は始まったのでしょう。 カギとなったのが、激しい政治

    六孫王神社  臣籍降下と源氏のルーツ  - こうへいブログ 京都案内と文章研究について  
  • 平安京の誕生  それは革命のとき 長岡京をあとにして - こうへいブログ 京都案内と文章研究について  

    山の背後へ 延暦3(784)年、桓武天皇は平城京を棄てさり、長岡京への遷都を行いました。 ですがその長岡京も僅か10年という短命に終わり、さらに平安京へと遷ることになります。 平安京は現在の京都市内であり、長岡京は現在の京都府の向日市・長岡京市にあたります。 位置関係でいうと、平安京の正門・羅城門があった九条通りから長岡京市内までは、車だと移動時間30分、わずか20キロほどの距離です。 この長岡京、平安京の遷都は一括して「山背」遷都と呼ばれています。 「山背」(やましろ)とは、平城京から見た奈良山の北側の国、そう、山の背後にあたる国ということです。 のちに平安京に遷都されるときに「山背」は「山城」に改められるのですが、山の背後に政治的拠点が移された理由として、桓武天皇のある思惑がありました。 それはどういうことかと言うと、桓武天皇は古い因習を断ち切りたかった、つまり、平城京の影響が全く残ら

    平安京の誕生  それは革命のとき 長岡京をあとにして - こうへいブログ 京都案内と文章研究について  
    kirakirapark
    kirakirapark 2022/02/18
    陰陽師は、国家公務員だったのですね。
  • 祇園  「いちげんはん」と「さしこみはん」 - こうへいブログ 京都案内と文章研究について  

    路地裏をせくように歩く舞妓さん 紅殻格子(べんがらごうし)のお茶屋が立ち並ぶ、京都を代表する花街。軒下の提灯に明かりが灯りはじめる夕方になると、舞子さんが通りの角から少しせくように現れます。 そんな情緒を感じられる花見小路あたりが祇園(ぎおん)という街のイメージではないでしょうか。 いにしえからの祇園への思い もともと祇園とは、祇(かみ)の園(その)という意味であり、スサノオノミコトである牛頭天皇を祀る八坂神社のことです。 承平4(934)年に社殿が創建された八坂神社は朝廷からの信仰を授かり、京都の民からも疫病退散・災難退散の神としてあがめられたのです。 人口の密集していた都であった京都に病気が蔓延したり、世の中が不景気になったりすると、世直しの神として祭礼が派手に行われました。 そんな信仰が現在の祇園祭りには継承されているんですね。 元禄まではのどかだった祇園 昔から神社の門前には料理

    祇園  「いちげんはん」と「さしこみはん」 - こうへいブログ 京都案内と文章研究について  
  • 高台寺  秀吉とねね ふたりで築いてきたもの - こうへいブログ 京都案内と文章研究について  

    ねねという女性(ひと) 洛中の七条通りを東の方角へ突き当るまで進み、京都女子大学のある坂を越えてさらに進むと、五百段もある大階段が見えてきます。 その気の遠くなるような長い階段をのぼりきったところにあるのが、豊臣秀吉の墓である豊国廟です。 はるか昔、菩提を弔うために、週に何度もこの場所へと、階段をのぼり通い詰めた一人の女性がいました。 秀吉の出世を陰で支え続けてきた、ねねという女性です。 彼女は秀吉の正室でしたが、子供を授かることはありませんでした。豊臣の後継者になった秀頼は、側室の淀殿が産んだ子供なのです。 秀吉の死後、しばらくすると、ねねは剃髪して出家し、高台院湖月尼として高台寺という寺で残りの余生を過ごしたんですね。 ねねが出家したのは51歳のときでしたが、その後の26年間という長い歳月を、秀吉の思い出とともに高台寺で一人で生きていくことになります。 清水寺と祇園という花街のちょうど

    高台寺  秀吉とねね ふたりで築いてきたもの - こうへいブログ 京都案内と文章研究について  
    kirakirapark
    kirakirapark 2022/01/01
    ねねさんは、10歳年下だったのですね。すごくしっかりされている印象で、勝手に姉さん女房くらいの感覚でいました。
  • 1