「点の建築史」から「線の建築史」へ fig.1──加藤耕一『時がつくる建築── リノべーションの西洋建築史』 (東京大学出版会、2017) 加藤耕一──今日は国内外で設計をされている長谷川豪さんと歴史について議論するということで、とても楽しみにしてきました。最初に、この4月に刊行した『時がつくる建築──リノべーションの西洋建築史』(東京大学出版会)[fig.1]の紹介も交えつつ、関心の所在と論点を簡単にご紹介できればと思います。私はゴシック建築史を専門としていますが、歴史家として現代と歴史をどうつなげるかをずっと考えてきました。 少し前の話になりますが、2012年に新国立競技場の最初のザハ・ハディド案が出た時、あらゆる論点から批判や擁護の声があがりました。この時個人的に感じたのは、巨大な建物を新築し、維持していくことが難しい社会にわれわれは直面しつつあるのだということです。拙著『時がつくる
2020年に東京で開催されるオリンピックとパラリンピックのメインスタジアムとなる「新国立競技場」のデザインが物議を醸している。その発端は、建築家の槇文彦氏が日本建築家協会の機関誌「JIA MAGAZINE」の2013年8月号に寄稿した「新国立競技場案を神宮外苑の歴史的文脈の中で考える」の論考である。槇文彦氏はこの論考で「新国立競技場」は「巨大すぎる」と批判している。その翌々月の2013年10月にこの論考を新聞メディアが相次いで報道し、この問題が多くの人々に知られることとなった。 さて、「新国立競技場」のデザインは上記の論考のちょうど1年前の2012年に行われた建築設計コンペの「新国立競技場 国際デザイン・コンクール」で決定した。2012年10月30日に二次審査対象作品11点が公表され、翌月の2012年11月16日にその中から最優秀賞が決定した。最優秀賞を射止めたのは、ロンドンを拠点に活躍す
1. はじめに 今日の私がお話しするのは「表現者・堀口捨己──総合芸術の探求」についてです。 建築史の研究者という立場から堀口捨己(1895-1984)[写真1]について語るわけですが、その前に堀口の作品について、簡単におさらいをしましょう。 1──堀口捨己(堀口家蔵) まずアムステルダム派を含む表現主義の影響からスタートし、やがてモダニズムに傾倒し、和風建築も設計します。「紫烟荘」(1926)や「大島測候所」(1938)、「若狭邸」(1939)、そして戦後の和風建築の傑作「八勝館みゆきの間」(1950)などです。戦後には大規模な鉄筋コンクリート造の作品として明治大学の一連の校舎などがあります。 堀口に対する従来の評価は、戦前には日本の近代建築をリードする存在だったけれども茶室建築の研究などを通じて日本回帰し、戦後には和風建築の大家になった、というものでしょう。建築家の中には「堀口の和風建
こんにちは、ニュースレター作成代行センターの木曽です。 『何度も自邸を建てる』 それも5回ともなると余程気に入らなかったのか、大変わがままな大富豪からの依頼なのか・・・ 普通ではなかなか考えられないことですが、自分の自宅を実験住宅として建てては壊したり、すぐに譲ったりしていた建築家がいました。 それは、大正から昭和にかけて活躍した建築家・藤井厚二です。 藤井厚二 京都の大山崎の天王山の麓に12,000坪の土地を購入し、そこに4度にわたって自邸を建てました。 自邸を検証のための実験として作り、実際に暮らした上でよりよい日本人の住まいのあり方を追及したのでした。 今から80年以上前に、時代に先駆けて『日本の気候風土に適した住宅』を追い求めた藤井とはどんな人物だったのでしょうか? 藤井が完成形とした住宅はどんな姿をしているのか?を考えつつ、実験住宅最後(5度目)の自宅「聴竹居(ちょうちくきょ)」
『あなた方には、脱いだ履物を揃える自由があります』 自由学園の創設者・羽仁もと子が、生徒たちに「履物を揃える自由」という話をよくしていたと言います。 今回ご紹介するのは、日本で女性初のジャーナリスト「羽仁もと子」が、女子教育に力を注ぎ、創設した自由学園の「自由学園明日館」です。 「脱いだ靴は揃えなさい」と親がわが子によく言って聞かせますし、子どもたちも深く考えずに「そうするもの」だと思い育ってきたはずです。 「揃える自由」があるということは、「揃えないで脱ぎっぱなしにする自由」もあるということですよね。 例えば、「片づける自由」もあれば、「散らかしっぱなしにする自由」もある。 「しぶしぶ勉強する自由」もあれば、「楽しく勉強する自由」もある。 「傷ついた人を助ける自由」もあれば、「見て見ぬフリをする自由」も・・・ときりがないくらい「自由」はあります。 このように考えると、私たちの生活は常に「
── By 布野修司 | 2017/04/27 | Featured, 012号:2017年夏(4月-6月), 書評 | 0 comments 立原道造(1914~1939)、享年24歳。僕(評者)の24歳などほとんど何もなしえていなかったに等しい。もうその3倍近く生きてきたけれど、この夭折の詩人・建築家の生の密度は想像もできない。 だからというわけでもないけれど、若くして多産なその仕事について、これまで考えることがなかった。もちろん、その名は知っていた。角川版の『立原道造全集』全六巻(1971~73)が出たのは大学院の頃である。 立原道造の同世代の建築家一人である吉武泰水(1916~2003)の研究室に僕は所属していた。直接教わらなかったけれど生田勉(1912~1980)は駒場の図学の先生だった。丹下健三(1913~2005)の「アーバン・デザイン」の講義は聞いたし、大江宏(1913~1
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