連合国による日本の占領を終結させ、対日講和条約を締結する動きは1947年からみられましたが、日本で議論が活発になったのは、49年の秋にアメリカのアチソン国務長官らが講和のあり方を具体的に検討し始めたという情報が入ってきた頃からでした。 ソ連など社会主義国も含めた全面的な講和か、米英仏など西側諸国だけとの講和(単独講和ないし片面講和)かが議論になりました。政府は、冷戦の激化を考慮すると片面講和しかないという立場を採りました。これに対して丸山真男、大内兵衛らの学者・文化人の「平和問題談話会」は、50年1月、全面講和を主張しました。社会党も51年1月には「全面講和、再軍備反対、中立堅持、軍事基地反対」(いわゆる「講和4原則」)を決定しました。 全面講和か否かは、独立した日本が西側諸国の一員となってアメリカ軍の駐留の継続を認め、武装も独自にするのか、あるいは、軍事的にもアメリカから独立し、憲法9条