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ブックマーク / www.tapthepop.net (24)

  • これが本当の80年代サウンド②〜忘れられた洋楽ヒットにもう一度スポットライトを

    これが当の80年代洋楽ヒット・第2回 80年代の洋楽をまとめたネットコンテンツやラジオ番組や雑誌には、いつもお決まりのアーティストやヒット曲だけがラインナップされている。それは同時代のコンピレーションがリリースされても同じこと。今回の企画はそんなありきたりの選曲ではなく、聴くだけで(観るだけで)「ああ! いた!! あった!!」と歓喜するようなアーティストやヒット曲を思いつくままに集めてみた。題して「これが当の80年代サウンド」。そろそろマドンナやマイケル・ジャクソンの呪縛から解放されよう。ドライブや通勤タイム、懐かしの音源探しに活躍すること間違いなし。(選曲/中野充浩) パート1はこちらから。 モーテルズ「Suddenly Last Summer」(1983年・全米9位) 女性ヴォーカルのマーサ・デイヴィスを看板にしたカリフォルニア出身のニュー・ウェイヴ・バンド。1982年に「Only

    これが本当の80年代サウンド②〜忘れられた洋楽ヒットにもう一度スポットライトを
    kno
    kno 2019/10/12
    トレイシーウルマン(カースティマッコールの曲も)好き/winkは日本のストロベリースウィッチブレイドを目指してたんじゃないかと勝手に思ってた
  • スリーピースバンドの世界〜最強の“3人組”は?(前編)

    あなたにとって最強の3人組は? 4人組や5人組のイメージが強いロックバンドの世界。だが歴史を振り返る時、忘れてはならないのが3人組。今回は1960〜ゼロ年代に活躍したスリーピースバンドに絞って、思いつくままにラインナップしてみた。まずは前編10組を。 ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンス 衝撃度という意味ではダントツか。バンド名の通り、どの映像もジミヘンが目立ってしまうが、ノエルやミッチのプレイも凄い。 Jimi Hendrix Noel Redding Mitch Mitchell クリーム ジミヘンと同時期に結成されたスーパーグループの草分け。こちらにはクラプトン。 Ginger Baker Jack Bruce Eric Clapton

    スリーピースバンドの世界〜最強の“3人組”は?(前編)
    kno
    kno 2019/09/25
    サムネがジャムなのは嬉しい/ニルヴァーナは後半にありそう、あとはヨラテンゴとかスリッツとか少年ナイフとかいないかな(いないかも)
  • 松重 豊 スペシャル・インタビュー【前編】パンクからはじまった音楽遍歴と、音楽でつながる家族の絆を語る

    ドラマ『孤独のグルメ』をはじめ、テレビ映画、舞台と八面六臂の大活躍をみせる俳優・松重豊さん。実は無類の音楽好きだってご存知でしたか? 松重さんがパーソナリティを務めるラジオ番組『深夜の音楽堂』(Fm yokohama・毎週火曜深夜0:30より放送中)は、T字路s、Rei、cero、片想い、NakamuraEmi……などなど、TAP the POPでも紹介してきた気鋭のアーティストたちを次々にゲストに招き、ディープな音楽談義を展開。流行に流されない芯のある音楽を毎回たくさん紹介している、最近では珍しいほどに骨太な音楽番組なんです。 自分を育んだルーツにある音楽を大事にしながら、50代半ばを超えた現在も、新しい音楽を貪欲なまでに漁り続けている松重豊さんは、TAP the POPが考える理想のリスナー像だ! ということで、サイト開設5周年を記念してスペシャル・インタビューを敢行。ラジオ番組収

    松重 豊 スペシャル・インタビュー【前編】パンクからはじまった音楽遍歴と、音楽でつながる家族の絆を語る
    kno
    kno 2019/01/02
    めんたいロック直撃っていいよなー
  • ジョー・ストラマー特集

    ジョー・ストラマーがクラッシュのフロントマンとなったのは、ロンドンでパンクが大きなムーヴメントとなりつつあった1976年のことでした。 真剣に音楽で世界を変える、という強い信念と野望とともに、バンドはイギリスを代表するバンドの一つにまで成長していきます。 しかしジョーはどれだけ有名になろうとも決してスターの座に就こうとはせず、常に労働者階級の側に立とうと苦心していました。 クラッシュ解散後の活動はしばらく映画関係が中心となりましたが、90年代に入ると再び音楽活動が盛んになり、2002年に亡くなるまで精力的にメッセージを放ち続けました。 その真っ直ぐな言葉、音楽、そして生き方は、今も多くの人たちを惹きつけてやみません。 ほんの一部ではありますが、今一度、彼の音楽やメッセージに触れていただければ幸いです。

    ジョー・ストラマー特集
    kno
    kno 2017/12/22
    もう15年か
  • 今も色褪せない極彩色の衝撃──ボ・ガンボス特集

    1989年4月にデビュー。6年2ヶ月という短い活動期間ながら、日のロックに衝撃を与えたボ・ガンボス。1995年6月にバンドは解散、2000年1月にはボーカルのどんとも他界してしまいましたが、彼らの音楽は今もなお色褪せない輝きとメッセージを放ち続けています。 デビュー25周年を記念し、TAP the POPではどんとの20回目の命日でもある2015年1月28日から特集としてコラムを集中連載しました。 1989年のボ・ガンボスにフォーカスを絞った記事や、当時の活動を振り返る関係者へのインタビュー、またボ・ガンボスの音楽やどんとの綴ってきた歌が次の世代にもたらした影響など、さまざまな角度からバンドの魅力を切り取っています。豊富なライブ映像とともに、ボ・ガンボスの世界にぜひ触れてみてください。

    今も色褪せない極彩色の衝撃──ボ・ガンボス特集
    kno
    kno 2017/08/08
  • どんとの27歳~絶頂の日に起こった転落事故

    どんと(久富隆司)は1962年8月5日、岐阜県大垣市で生まれている。 小学生のどんとはテレビの歌番組を見るのが一番好きで、1969年から70年にかけて始まった歌謡曲の黄金時代を体験したことで、歌をうたうことの喜びを知った。 尾崎紀世彦の「また逢う日まで」が発売になったのは1971年3月5日、ヒットしたのはその年の春から夏にかけてのことだ。 ある時、尾崎紀世彦が突然スイ星の如く現れて(笑)。あの爆発力を「ああエエなあ」と思って。マイクの持ち方まねしたり。初めて買ったレコードも「また逢う日まで」だし。歌なんかもすぐ覚えて、人に歌って聴かすのが好きやったんや。 年末に第13回日レコード大賞と第2回日歌謡大賞をダブル受賞し、『NHK紅白歌合戦』に初出場した時のパフォーマンスも評判になり、「また逢う日まで」は翌年にかけてふたたび盛り上がった。 次に歌の衝撃を受けたのは、ラジオを聴いていて知ること

    どんとの27歳~絶頂の日に起こった転落事故
    kno
    kno 2017/08/05
  • ポール・ウェラーの27歳~ジャムを解散してようやくたどり着いた自分の音楽

    イギリスで絶大な人気を誇っていたバンド、ザ・ジャム。その活動は1982年12月11日のコンサートを最後に幕を閉じた。 そして1983年。精神的に大きな負担となっていたバンド活動から解放されたポール・ウェラーは、これからの音楽活動に対して非常に前向きになっていた。新たに音楽を作っていくにあたってポールが選んだ新たなパートナーは、キーボーディストのミック・タルボットだった。 ポールが当時傾倒していたソウルやジャズといったサウンドを取り入れるために、キーボードは必要不可欠だった。ミックはジャムのレコーディングに参加したことがあり、ポールは彼のユーモアに溢れた人柄や共通する音楽趣味にとても惹かれていた。 まさに打ってつけの存在だったのだ。 2人はスタイル・カウンシルというユニットを結成すると、その年の3月に早くもデビュー・シングル「スピーク・ライク・ア・チャイルド」をリリースする。 ジャムの後期

    ポール・ウェラーの27歳~ジャムを解散してようやくたどり着いた自分の音楽
    kno
    kno 2017/06/19
  • レイ・マンザレクを偲んで〜ドアーズの天才キーボーディストの偉大な功績

    2013年5月20日、レイ・マンザレクは入院中だったドイツの医療センターで息を引き取った。 ザ・ドアーズ(The Doors)のFacebookには、こんなコメントは発表された。 「ザ・ドアーズのキーボーディストで創設メンバーのレイ・マンザレクが、日午後12時31分、胆管癌との長い闘いの末、ドイツのローゼンハイムにある病院で亡くなりました。74歳でした。のドロシー・マンザレク、兄弟のリックとジェイムス・マンザレクに囲まれる中、静かに息を引き取りました。」 1965年の夏、彼らはカリフォルニア州ヴェニスビーチで誕生した当初から、真の意味でのバンド=創造的なエネルギーの集合体だった。 その伝説はUCLA(カリフォルニア大学ロス校)の映画学科で学んでいたジム・モリソンとレイ・マンザレク(オルガン・ピアノ)との出会いから始まったという。 ちなみに、後にドアーズの楽曲「The End」を映画『地

    レイ・マンザレクを偲んで〜ドアーズの天才キーボーディストの偉大な功績
    kno
    kno 2017/05/21
  • ロックを歌う2人の詩人、パティ・スミスとジム・モリソンの物語

    2007年にパティ・スミスがリリースしたカバー・アルバム『トゥウェルヴ』には、ドアーズの「ソウル・キッチン」が収録されている。 その理由についてパティは、夢の中で熾天使から「ソウル・キッチンをやらなきゃだめだよ」と告げられ、起きて外に出たら、ゴミ清掃車のラジオから「ソウル・キッチン」が聞こえてきたからだと説明している。 パティ・スミスが家族に別れを告げ、ニューヨークへとやってきたのは1967年の夏、20歳のときだった。 それまで故郷の工場で働いていたパティだったが、アートの世界で生きていきたいという夢を諦めることができなかったのだ。敬愛する詩人、アルチュール・ランボーの詩集を手に単身ニューヨークへとやってきたパティは、書店のレジという仕事を見つける。 そして同じ夢を持つ画家の卵、ロバート・メイプルソープと出会うと、2人は意気投合して一緒に暮らすようになるのだった。 そんなパティが初めてドア

    ロックを歌う2人の詩人、パティ・スミスとジム・モリソンの物語
    kno
    kno 2017/05/10
  • 27歳で引退を決めて日本を離れようと考えていた藤圭子〈後編〉~ 「あたし、嘘つくのいやだったんだ」

    Home TAP the STORY 27歳で引退を決めて日を離れようと考えていた藤圭子〈後編〉~ 「あたし、嘘つくのいやだったんだ」 - TAP the POP 1979年の10月、作家の沢木耕太郎は、翌年から朝日新聞に連載するノンフィクションを執筆するため、伊豆の山奥の温泉宿に長期滞在していた。 そんなある日、執筆に疲れて部屋のテレビをつけると、「藤圭子引退!」のニュースが大きく取り上げられた。 それに強い衝撃を受けた沢木は即座に山を降りて、藤圭子に連絡を取ってインタビューをさせてもらう約束を取りつける。 時代の歌姫がなぜ歌を捨てるのか、その問いと答えをインタビューだけで描き切る、そんなアイデアが浮かんだのだ。沢木は数ヶ月前に偶然、知人を介して藤圭子と出会って、初めて言葉をかわしていた。 話の内容はとりとめもないことだったと思う。しかし、その最後にぽつりと藤圭子が言ったのだ。 「もう

    27歳で引退を決めて日本を離れようと考えていた藤圭子〈後編〉~ 「あたし、嘘つくのいやだったんだ」
    kno
    kno 2016/11/15
  • 泉谷しげる、ザ・タイマーズ、ボ・ガンボス、山口冨士夫が一堂に会した、伝説の学園祭ライブ

    1988年11月13日── その年の9月に昭和天皇の重体が報じられ、ニュースでは陛下の下血量が随時速報されていた時期。世間には自粛ムードが少しずつ漂いはじめていたものの、横浜国立大学の学園祭は予定通り開催された。 目玉は野外で開催されるロック・コンサート。 ラインナップは、同年1月に発表したレーベル移籍第1作となるアルバム『吠えるバラッド』が高い評価を集めていた〈泉谷しげる with LOSER〉。ザ・ダイナマイツ〜村八分〜裸のラリーズを渡り歩いたギタリスト山口冨士夫が新たに結成したバンド〈ティアドロップス〉。そして元ローザ・ルクセンブルクのどんとを中心とした新生バンド〈ボ・ガンボス〉の3組だった。 1番手に登場したのは、メジャー・デビュー前のボ・ガンボス。原色のド派手な身なりのボーカルと、転がるようなピアノのカッコよさ、そして粘っこいファンキーなグルーヴで、当時高校生だった筆者も一気に心

    泉谷しげる、ザ・タイマーズ、ボ・ガンボス、山口冨士夫が一堂に会した、伝説の学園祭ライブ
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    kno 2016/11/15
    "泉谷さんと清志郎と冨士夫って、俺の3大スターなんだよね"
  • コートニー・ラヴ27歳〜運命の愛、宿命の死

    これを一緒に乗り越えて生きてくれたら あんたのために死んでもいいわ あたしとこれを乗り越えてくれたら あんたのために死ねると誓うわ ♪「Asking For It」/ホールfeat. カート・コバーン 1994年4月1日。 カート・コバーンは、のコートニー・ラヴに一の電話をかけた。 「忘れないでくれ、これから何が起こっても俺はお前を愛している」 その直後、カートはLAの麻薬リハビリセンターから脱走し行方不明となってしまう。 その時、コートニーも同じく薬物依存治療のためにLAのホテルで専門医と二人缶詰状態となっていた。 そして…その4日後の4月5日、ヘロインを大量に摂取したカートは、銃を持ち自らの命を絶った。 カートの遺体は死後72時間経って発見される。 カートの死を聞いて、コートニーはこう言って激怒し、泣き崩れたという。 「楽な道を選びやがって!」 遺体が発見された2日後(4月10日)

    コートニー・ラヴ27歳〜運命の愛、宿命の死
    kno
    kno 2016/08/26
    Live Through This
  • TAP the POP 2周年記念特集 ミュージシャンたちの27歳~青春の終わりと人生の始まり〜

    Home TAP the POP 2周年記念特集 ミュージシャンたちの27歳~青春の終わりと人生の始まり〜 - TAP the POP かつてロックが、混沌とした社会や人間の迷走する内面を突き動かす力を最も放っていた1960年代後半。その頃の若者の象徴でもあったヒッピーや反戦運動家たちが主導した対抗文化のスローガンの一つに、“Don’t trust anyone over 30”というものがあった。 システムや体制の中で利益追求や保守的な価値観に溺れている「30歳以上の奴を信じるな」というこの姿勢には、自由な生き方と束縛された生き方、あるいは新しい若者たちと古い大人たちといった明確な線引きもあったはずだ。 だが、人は生きて年を重ねていく。いずれは生きている誰もが30歳になる。 自分が信じたくなかった人生を、これから生きていかなければならない。 結局は時代の空気がそうさせたとか、ティーンや2

    TAP the POP 2周年記念特集 ミュージシャンたちの27歳~青春の終わりと人生の始まり〜
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    kno 2016/07/16
  • 番組から禁止されていた曲を歌ったエルヴィス・コステロ

    デビュー間もないエルヴィス・コステロが、アメリカの人気番組「サタデー・ナイト・ライヴ(SNL)」で事件を起こしたのは1977年12月のことだった。 コステロが1stシングル「レス・ザン・ゼロ」でデビューを果たしたのはその年の3月のことだ。 プロデュースはパブロックの雄、ニック・ロウ。 当時パンク・ムーブメント真っ只中にあったイギリスにおいて、バディ・ホリーを彷彿とさせる風貌は逆に新鮮だったが、レコードはチャートインを果たすことができず、立て続けにリリースされた2ndシングル「アリスン」と3rdシングル「レッド・シューズ」もチャート圏外に終わった。 しかし、1stアルバム『マイ・エイム・イズ・トゥルー』がリリースされた頃から、風向きが変わり始める。 辛辣で社会への怒りをさらけ出した歌詞とストレートなロックのサウンドはメディアから高い評価を受け、UKチャートで14位という好セールスを記録した。

    番組から禁止されていた曲を歌ったエルヴィス・コステロ
    kno
    kno 2016/07/15
    こういうことやってたからパンク文脈で語られるんだよなw/99年のコステロ先生マジかっこいい(太ったおっちゃんなのにw)
  • 時代を超えて現在を撃つメッセージと演奏~スーパー・ジャンキー・モンキー

    1993年11月、CBSソニーで国内新人発掘部門を担当していたミュージック・マンの野中規雄は、ニューヨークのライブハウス「CBGB」に来ていた。 ラモーンズやテレヴィジョン、パティ・スミス、トーキング・ヘッズなど、パンクに影響を受けたバンドが出演していたことで知られるCBGBに野中が足を運んだのは、日で行われたオーディション優勝者に与えられた副賞だった「CBGBで演奏できる権」の立ち合いのためだ。 アメリカのインディーズ・バンドによる街フェスとして始まった「CMJミュージックマラソン」に、日から参加していたのはオルタナティブ・ロックの4人組、SUPER JUNKY MONKEYである。 地元インディーズ・バンドに混じっての出演だったこともあって、 前のバンドが終わると観客たちは引き上げ始めた。 スーパー・ジャンキー・モンキーのメンバーたちがセッティングを始めるのを見て、まるで期待できな

    時代を超えて現在を撃つメッセージと演奏~スーパー・ジャンキー・モンキー
    kno
    kno 2015/12/11
  • 19年ぶりに実現したジョー・ストラマーとかつての相棒、ミック・ジョーンズとのステージ

    ジョー・ストラマーが心臓疾患により突如としてこの世を去る日からおよそ1ヶ月前の2002年11月15日。 ロンドン西部のノッティング・ヒルにあるアクトン・タウン・ホールでは、消防団組合のストライキを支援するチャリティイベントが催され、ステージではジョー率いるメスカレロスがライブをしていた。 クラッシュ時代から労働階級の側に立って歌ってきたジョーは、主催側からのオファーを二つ返事で受けたという。 2曲目が終わると、ファンに向けてジョーから嬉しい情報が伝えられた。 クラッシュでのかつての相棒、ミック・ジョーンズも今日のステージを観に来ているというのだ。 この日、ミックは一緒に観に行く予定だった友人がドタキャンしてしまい、行くのをやめるか迷ったという。 そして悩んだ末に、タクシーを捕まえて会場へと足を運んでいたのだ。 ジョーがミックをクラッシュから解雇したのは1983年のこと。 のちにジョーはこの

    19年ぶりに実現したジョー・ストラマーとかつての相棒、ミック・ジョーンズとのステージ
    kno
    kno 2015/11/16
  • 加藤和彦との結婚、そしてサディスティック・ミカ・バンドの誕生

    京都の平安女学院に通っていた福井光子(ミカ)が、加藤和彦と出会ったのは高校2年生、17歳の秋のことだ。 龍谷大学の学生だった加藤はザ・フォーク・クルセダーズのメンバーだったので、京都の若者たちの間ではちょっとした人気者になっていた。 ミカは同級生とフォークデュオを組むことにしたとき、ファンだった加藤にギターのレッスンを頼もうと思い立って、フォークルが出演するコンサートに出かけて番前の楽屋を訪ねた。 そして首尾よくOKをもらった。 だがレッスンを引き受けてはみたものの、いざ始めてみるとなかなか二人は上達しない。 そこで加藤がある日、こう言った。 「この先何年、あなたたちにギターを教えてもコンサートには間に合いそうにないから、とりあえず歌の練習をしましょう」 こうして加藤がミカ&トンコというフォーク・デュオのバックでギターを弾くことになり、そこからミカとの個人的な付き合いも始まった。 だが1

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    kno 2015/10/10
  • 「銀河一のアイドルのデビュー曲を作ってください」と菅野よう子からオファーされた松本隆

    隆トリビュートアルバム『風待ちであひませう』を手にして、制作に携わった人たちの思いが伝わってくるブックレットのなかで、詩人の最果タヒさんが書いた素敵な文章に出会った。 松隆の言葉は、歌われること、そしてそれを聴く人がいることを、知っていて、そうして生まれてきたものだった。だから、聴いていると、歌っていると、言葉がとてもしあわせそうに生きて、歌って、踊っている。 書かれてあるそれらの言葉、活字のリズムにハッとして嬉しくなった。確かに『風待ちであひませう』は最初から最後まで、どの曲も言葉がとてもしあわせそうに生きて、歌って、踊っているアルバムだった。 なかでも3曲目に入っていた「星間飛行」は、クラムボンの創りだしたサウンドと原田郁子のみずみずしいヴォーカルによって、オリジナルとは異なる風が感じられた。 アニメ『マクロスF(フロンティア)』の劇中で、瞬く間にシンデレラ・ストーリーを駆け上が

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    kno
    kno 2015/06/26
  • カート・コバーンが誇りにしたMTVアンプラグドでのパフォーマンス

    『MTVアンプラグド』は様々なミュージシャンがプラグを使用せず、つまりはアコースティックで演奏を披露する番組だ。 1992年にエリック・クラプトンが出演した際にそのパフォーマンスが話題となったことによって、MTVの看板番組となった。(詳しくはこちらのコラムで) そんな人気番組が1992年の秋にオファーを送ったのが、若者たちから絶大な支持を集め、MTVビデオミュージックアワーズを受賞した経歴を持つ3人組のバンド、ニルヴァーナだった。 ドラムのデイヴ・グロールは、出演前に抱いていた番組の印象についてこう話している。 「アンプラグドは観たことあったけど、大半の演奏は好きじゃなかったな。 だって、あいつらマジソン・スクエア・ガーデンにいるかのような振る舞いで自分たちのヒット曲をやってるんだぜ。 違うのはアコースティックギターってことだけさ」 メンバーの目には、アンプラグドでやることの意味、質とい

    カート・コバーンが誇りにしたMTVアンプラグドでのパフォーマンス
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    kno 2015/06/10
  • 岡林信康の「山谷ブルース」を聞いた板前見習いの若者が起こした行動

    1960年代の半ば過ぎから後期にかけて、日でもフォーク・ムーブメントという現象が起こった。 ギターを弾いていくつかのコードさえ押さえられれば、自分の言葉を綴った歌という形にして、社会に対する疑問や怒りを意思表示して伝えることを知った若者たちが、日中のあちらこちらでギターを抱えて歌い始めたのだ。 当時は「プロテスト・フォーク」とも呼ばれたが、アメリカのピート・シーガーやボブ・ディランに代表される「フォーク歌手」の影響を強く受けていた。 60年代後半からに70年代にかけて登場した関西フォークの高石ともや、中川五郎、岡林信康、高田渡などの特徴は、「自作自演」であること以外に、自己の内面を見つめる視点を持っているシンガーであり、歌詞が社会に訴えかけるメッセージ性を内包しているところだった。 同志社大学の大学生だった岡林信康が歌う「山谷ブルース」は、同世代の若者以外にも広く伝わる心情が歌われてい

    岡林信康の「山谷ブルース」を聞いた板前見習いの若者が起こした行動
    kno
    kno 2015/04/04
    "カウンターに座るなり「ミカミってのがサァ」と言い始め、 笑いながらキヨが「こいつがミカミだよ」と言った時、 岡林は驚きのあまりに椅子から転げ落ちていた。"