ブックマーク / blog.goo.ne.jp/f-ryota (6)

  • wasebun、アバター - 仮想算術の世界

    お知らせを忘れてましたが、『wasebunU30』に現代中国文化ネタで一論考を寄せています。よろしければどうぞ。 この論考もそうだし(ただところどころ筋が悪いので、個人的には不満)、今度出るもそうですが、多少大袈裟に言えばすべての社会事象をネットワークの複雑性の縮減プロセスとして見ることによって、言い換えればかつてのヘーゲル的弁証法をルーマン的オートポイエーシスによって置き換えることによって、文化や芸術の総合的な価値転倒を企てる、みたいなことを僕はやりたいわけです。よって、思考様式は完全に一元論(とそれと裏腹になった多元論=アプリケーションの多様性)によって構成される。つまりはanything goesの感覚をいかに言説レベルで担保するかということで、その点では僕にとって批評を書くということは、必要最低限の客観性・ノンフィクション性を備えた上での一種の美学に近くなっています。けれども

    kodaif
    kodaif 2010/02/11
    "備えた上での一種の美学に近くなっています。けれども、ある種のマイナー性を拾い上げることが批評の仕事であるならば、批評がジャンルとしては美学あるいは詩に近くなっていくことは当然ではなかったか。"
  • 阿久根市長発言と生権力 - 仮想算術の世界

    ブログほったらかしですみません。新著(『神話が考える』)のほうは徐々にゲラになっておりますので、どうぞ期待してお待ちください。そういえば、最近ほうぼうから「何でツイッターやらないんだ?」と詰問されているのですが(笑)、ツイッターは確かにシステムとしては大変興味深いとはいえ、ちょっと自分でやるのは二の足を踏んでしまう…。いや、ツイッターは当はかなり破壊的だと思いますよ(笑)。まぁそうはいいつつも、どうせ来年には始めてるんでしょうが。選択の余地はなさそうです。 最近は抽象的なばかり読んでいて、ニュースもたいして見ていなかったのですが、阿久根市長の竹原信一の発言は非常に重要です。「高度医療が障害者を生き残らせている」という発言が実はきわめて正確であることは、フーコーを読んだ人ならわかるはずです。フーコーは、およそ二つのタイプの権力を分けています。一つは生殺与奪の権限を握った古典的な権力、つ

    kodaif
    kodaif 2009/12/28
    "権力者に見える。しかし、他方から見れば、彼はむしろ高度医療そのものが生権力の源泉になっており、「生命を最大化する」ことのもたらす弊害が無視できなくなっていることに着眼している。このズレは深刻です。"
  • モノとしての記号 - 仮想算術の世界

    知り合いに放映中の『ハルヒ』のエピソード「エンドレスエイト」がいいと聞いて、選挙速報の傍ら、録画をまとめて見てみました(そういえば最近あんまりアニメ見てなかった)。4回連続で同じ話をループしているというやつ。 ご覧になった方はわかると思いますが(詳しい説明は面倒なのでしません)、このループは明らかに、長門視点から見た世界を示している。で、僕はそこがかなり批評的でいいと思いました。長門はもともと、他のキャラとはまったく別の時間性を持って動いているキャラです。特に今回はハルヒと対比されていてそこが面白い。 ハルヒは定期的にイベント(祭り)を欲するキャラです。夏休みのお決まりのイベントをこなしていく今回のハルヒは、特にそういう欲望を全面化させている。それに対して、長門はそういう「ハレ」の時間性を持たない。彼女は、人間社会の祭式の時間性とは全然違うロジックで動いている。今回にしても、何の変化も

    kodaif
    kodaif 2009/11/05
    "どのみち祭り=ネタ化のプロセシングからは誰も逃れられない。とはいえ、「まつりごと」とは別の幻想の回路を意識的に編み出している点では、「エンドレスエイト」が実験的な作品であるのも間違いない。"
  • サバルタン的主体のことなど - 仮想算術の世界

    お久しぶりです。なんだか更新が空いてしまいました。 エンドレスエイトが終わったらしいですね。それはそれとして、ただエンドレスエイトをめぐるこの間のネットの反応というのは、やれ角川と京アニは謝罪しろだの、やれ発案者を更迭しろだの、いくらなんでも幼児的すぎるものが多くて、さすがにどうかと思いました。もちろん、アニメをはじめサブカルチャーというのは、ファンとの距離がきわめて近いところに特色があって、そこから表現的に面白いものが出てきたという歴史もある。しかし、常識的に考えれば「作品をつくる側には固有のロジックがあって、それはときに消費者やファンの欲望と乖離することもある」というのが文化という営みの大原則でしょう。そういう乖離があってはじめて、文化は進化の可能性に開かれるのであって、逆にちょっとした乖離も許せないということになれば、文化は確実に停滞する。その意味で、最近は何かにつけて不寛容な反応

    kodaif
    kodaif 2009/11/04
    "乖離があってはじめて、文化は進化の可能性に開かれるのであって、逆にちょっとした乖離も許せないということになれば、文化は確実に停滞する。その意味で、最近は何かにつけて不寛容な反応が多すぎると感じます。"
  • 4Gamer.netのラブプラス論 - 仮想算術の世界

    ラブプラスは、僕は友人に借りて2時間くらいしかやってないのでちゃんとしたことは言えないんですが、この記事はとても面白くて俄然興味が出てきました(笑)。いろんなことが書かれてますが、大まかに言えば、ラブプラスが『雫』以前の純然たるコミュニケーション志向メディア(コミュニケーションゲーム)に回帰しており、そのことによってキャラクターが属性メインの個性的な存在から、初音ミクのように「細かい性格付けや設定は、すべてユーザー側に委ねてしまおう」とする「無個性キャラクター」になっているという話。読み応えがあります。 実際、キャラクターの見た目の造形の奇抜さということで言っても、たぶん90年代後半くらいが一番過激で、最近はますます保守化=無個性化しているような感じがする。でもそれは、TAITAIさんの図式を借りて言えば、コミュニケーションの優位がキャラクターの質を変えた結果であって、キャラクターの特定

    kodaif
    kodaif 2009/11/04
    "キャラクターをつつくと即座に多彩な反応をしてくれるという回路がないと、多個性な記号にはならない。2時間やっただけの印象で言っても、ラブプラスは、確かに「打てば響く」感の演出がすごい。"
  • レヴィ=ストロース氏死去 - 仮想算術の世界

    レヴィ=ストロース氏が亡くなられたとのこと、もうほとんど歴史上の人物と言っていいかと思いますが、それでもやはりショックでした。 僕は、ネットやサブカルチャーの分析にレヴィ=ストロースの神話論が適用できるのではないかというアイディアの下、『ユリイカ』で連載をしていたのですが、単行ではあまりレヴィ=ストロースへの言及は入れていません。ノルベルト・ボルツとかグレゴリー・ベイトソンといったあたりのシステム論系の論者の議論を使ったほうが、文化分析としてはうまく行くという気がしたからです。というか、フランス系の文学性を捨てて、生態学&神話論で行くほうがチャレンジしがいがあるのではないかと思った…というほうが正確かもしれませんが。 とはいえ、別にレヴィ=ストロースの議論が現代的にダメということではない。たとえば、レヴィ=ストロースの「神話素」という概念は、アレグザンダー的に言えばセミ・ラティスと同

    kodaif
    kodaif 2009/11/04
    "日本語で読んでも本当に理知的で美しい文章を書くひとでした。そして、その美しさは、人類の歴史そのものを遥か遠点から見るような独特のまなざしによって支えられています"
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