ブックマーク / blog.szk.cc (7)

  • 〈ほんもの〉を捏造する « Soul for Sale

    昨日は、仕事の予定が思ったより進んだ(というか〆切が延びた)ので、行けるかどうか微妙だった「Architecture After 1995」のシンポジウム、「『2000年以後』を考える」を見に行ってきた。パネリストは五十嵐太郎氏。氏が関わった2000年の展覧会「空間から状況へ」と今回の展覧会を比較しつつ、10年前と何が変わったのか、何が引き継がれたのかについて、出展した建築家たちを交えつつ振り返るという構成。『思想地図vol.3』の巻頭座談会「アーキテクチャと思考の場所」が、1999年の『批評空間』誌上における「いま批評の場所はどこにあるのか」へのアンサーになっていたことと、おそらくパラレルに企図されたものだろう。シンポジウムの中身というより、出展されていた方々のアティテュードについては個人的な問いが残ったが、それは会場でも言ったとおり「保留」としたので、押しかけでコメントした部分だけ、あ

    〈ほんもの〉を捏造する « Soul for Sale
    kodaif
    kodaif 2010/06/26
    "誰も意識しないうちに、僕たちの関係性のモードを表現するスタンダードな言葉になってしまった。その意味で、「00年代は繋がりの時代だった」と言う人もいるだろう。が、僕の考えでは、それはまったくの間違いだ"
  • 「真面目な人が報われない」

    どう論じたものか悩みながら、『東のエデン 劇場版II Paradise Lost』を見てきた。友人の手配で監督挨拶の回に行ったら、最前列のど真ん中というポジションで、監督が文字通り目の前。さすがに恥ずかしくて(何でだ)顔を上げられずにいたので、監督が僕に気づいていたとは思えないけど、もっそい怪しまれてたろうなと思う。神山さんごめんなさい。以下ネタバレ込みの感想。 劇場版Iを見たときからだいたい気づいていたけど、作の主題は、東のエデンのシステムや、それを駆使した「ニート」たちの集合的な力ではなく、それを利用する「王様」としての滝沢と、それに対抗する物部との政治観の違いへとシフトしている。両者の違いはいくつもあるが、それはたとえば、強い動機付けを持たない滝沢に対して、意志を持ったリーダーの必要性を認識している物部、といったところにも見られるが、より質的なのは、性善説を採り、みんなで生き残る

    「真面目な人が報われない」
    kodaif
    kodaif 2010/06/26
    "外れているから、そう呼ばれているに過ぎないという、そういう存在として描かれているわけだ。その世代間不平等を解消するために「間引き」を容認すれば、当然だが生き残るのは、若い世代ではなく、優秀な人材だ。"
  • 大学には入ったけれど

    今日は勤務先の入学式。毎年のこととはいえ、春先のキャンパスの浮かれた感じは独特のものがあって、年々垢抜けていく新入生も、このときばかりは戸惑いの表情を見せながらサークル勧誘のチラシを受け取っている。ほほえましい光景なのだけれど、その一方で、すでに道に迷っているというか、大学に入って何をすればいいのか分からなくなっているんじゃないかと思える子もいる。せっかくなので、大学で何をすればいいのか、少し書いてみようと思う。 1. 友達なんかいなくてもいい いま、若い世代の間では、コミュニケーションが生活の中心になりつつある。その理由はいくつもあるのだけど、ともあれ周囲とつながりを維持できなかったり、そもそも誘われなかったりすると、生きていくのに大変不便だ、という強迫観念を持っている人が、それなりの割合で存在している。 でも一方で、大学というところは、基的には個人で履修プログラムを決め、個人に成績が

    大学には入ったけれど
    kodaif
    kodaif 2010/06/26
    "チャレンジを企てているのでない限り、そんな情報は成績にたいして影響しない。なにより、いまの大学では、不出来な学生に単位を出さないというのがどんどん難しくなってきている。"
  • 操作可能なものの監視

    ポストモダン社会では、多様性の擁護、というか、人々が個性を発揮するということと、監視社会化が同時に進行するという議論がある。様々な角度からそのことを論じることができるが、その手の話で最近面白かったのは、スティーブン・ベイカー『数字で世界を操る巨人たち』だろう。ここで論じられているのは、個人の行動履歴を数値として監視し、数学的にモデル化することで、個々人に完全にカスタマイズされたサービスが登場するという話なのだが、その背景にあるのは、マーケティング的な統計モデルの持つ問題だ。多変量解析による消費クラスターの析出というありふれた手法は、設計次第でなんとでも答えが出せるというだけでなく、マーケティングとして「使える」ものにするという意味でも、差異化が進む現代においては役立たずになる。なぜなら、最小の消費クラスターは常に「個人」になるからだ。 ここにはふたつの発想の転換を見て取ることができる。ひと

    kodaif
    kodaif 2010/06/26
    "なんとでも答えが出せるというだけでなく、マーケティングとして「使える」ものにするという意味でも、差異化が進む現代においては役立たずになる。なぜなら、最小の消費クラスターは常に「個人」になるからだ。"
  • 一割の法則

    iPhone4の予約が、初日だけで60万台を突破し、過去最高の勢いなのだという。いよいよスマートフォン市場の格的な広がりか、とささやかれ、テレビの情報番組でも日のケータイのガラパゴス化が問題だと言われるようになってきた。普通に街を歩いていても、主婦層や学生が、普通にiPhoneを使っている場面を目にするようになってきた。様々な意味で、業界の勢力が変わりつつあるぞ、と実感する理由には事欠かなくなっている。 しかし「みんなが使っている」ように思えるiPhoneも、データで見るとだいぶ様相が違う。『ケータイ白書2010』では、昨年10月の時点でiPhoneの使用者率はソフトバンクユーザー全体の6.9%、ソフトバンクユーザーが全体の20.9%だから、iPhoneユーザーは全体の1.4%しかいないことになる。 出荷台数で見ると、MM総研の調査では、2009年度のスマートフォンの出荷台数が234万

    一割の法則
    kodaif
    kodaif 2010/06/26
    "流行意識と実態が乖離しているのかということだ。そもそも「流行」という現象じたい、ジンメルを引くまでもなく「差異化」と「同一化」のバランスの上に成り立つ出来事だから、常に意識と実態は乖離する。"
  • 書くという再帰性

    書くという行為は不自由だなと思う。商売で文章を書いていると、書くという行為は、常に誰かの求めに応じてなされるものになる。その時点で、相手と自分との間に生まれた社会観や時代観というものが、文章に反映されることになる。ワールドカップで盛り上がってた若者たちは、不景気のせいで世の中に不満を持っている層なんですか、と聞かれれば、不満の表れならもっと酷いことになっていたろう、と答えるけれど、雇用の問題で社会に対して怒っているのはごく一部の若者ですよね、と言われれば、そんなことはないですよと返すだろう。 それは、ブログやのように、自分の内発的な動機で文章を書く場合でも同じだ。ある社会観というか、前提として持っている想定があって、それに対する距離感が文章のトーンを決める。特にアカデミックな知識を用いながら一般に向けて書く場合には、異化効果というか「意外な驚き」みたいなものを盛り込もうとすることが多いの

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    kodaif 2010/06/26
    "「意外な驚き」みたいなものを盛り込もうとすることが多いので、その「意外」の反対側、つまり「世の中の人はこれを当たり前だと思っているだろう」という想定が、何を書くかを決めてしまうことがままある。"
  • 「ジリ貧」の美学

    どんな事柄にも、美学というものがある。代表的なのは「滅びの美学」だろう。合理的な判断による生き残りではなく、美意識を貫いて滅びを選ぶという選択は、美が何者にも優越するという点で、それの典型的な例となっている。 しかしながら個人主義化した社会では、その美学は、端的に「死ぬなら勝手に一人で死ね、俺を巻き込むな」という形でしか正当化され得ない。個人が選択する出来事なら、それでもかまわないのかもしれない。では、滅びの対象が、共同体や文化だった場合には? ある時期から、徹夜自慢のようなものを意識的に避けるようになった。自分がどれだけ忙しいか、どれだけ寝ていないかをついつい口にしてしまうのは、誰でもやりがちなことだけれど、仕事をしていくうちに分かるのは、要求された時間内にタスクをクリアすることや体調管理も生産性のうちであり、「がんばればできる」というのは、自分のことを心配してくれる少数の人以外にとって

    kodaif
    kodaif 2010/01/10
    "要求された時間内にタスクをクリアすることや体調管理も生産性のうちであり、「がんばればできる」というのは、自分のことを心配してくれる少数の人以外にとって、必ずしも歓迎されるスキルではないということだ。"
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