ブックマーク / ncat2.hatenablog.com (6)

  • 「レベルの高い笑い」鑑賞講座。お笑い観を変える2つのポイント。 - ncat2の日記

    お笑いファン(の一部)の間では、「あの笑いは世間には分からない」「レベルが高い」のようなことがやり取りされていることがある。ほとんど単なる選民意識だとかそういうものなのだが、そういう妙な部分は置いておいて、彼らが一体なにをもって「レベルが高い」としているのか? そこを考えていこうと思う。もちろん、絶対的なレベルの高さなんてものは存在しないわけなので、「なぜレベルが高いのか」ではなく、「どの部分のことをレベルが高いと言っているのか」という部分に着目していく。 と、いうことで、この記事は「お笑いを熱心に見ていない人にとっては、気が付きにくい笑いのポイント」について解説していくものとなります。全てのお笑いに応用できます。 「気持ちを察する」 まず筆頭として上げられるのが、気持ちを察する笑いである。これは、簡単に言えば、「ああ、こいつ今こんな気持ちなんだろうなあ」と言うことを考え、その気持ちを察す

    「レベルの高い笑い」鑑賞講座。お笑い観を変える2つのポイント。 - ncat2の日記
    kodaif
    kodaif 2010/01/07
    "この視点を入れただけで、「豪華すぎる」という単純な笑いどころだけだったのに、一気に複雑かつどこか深みのある笑いどころが生まれる。表情だけの笑いよりもずっと深読みできるものだ。"
  • 「無意味な批評」 が横行しすぎている現在へ警告。年も明けたしいろいろ語る。 - ncat2の日記

    M−1を経て、いろいろな感想や批評や争いを見た。で、そこでやっぱり思ったのは、無意味な感想や批評が多すぎるということ。ここで言った「無意味」とは、「僕はこう思った」に対して「私も! だよねだよね!」となることを目的としている感想と批評や、単なる天邪鬼の奇を衒っただけの文章、また、優勝予想などの「予想が当たるかどうかを楽しむ、当たったときに『すごいだろ?』ってする」みたいなことを目的とした文章、など。これは厳密に言えばエンタメとして成立していて、無意味なんかじゃないんですが*1、今からする「意味があるもの」の定義に反するということです。 で、その意味のあるものというのは、「新しい視点や深い思考に基づく作品の鑑賞の仕方を、見いだせるもの」。批評ならば、やはりこれを提示していかないとダメだと思う。さらに言うならば、そこに「そのジャンルの可能性を広げる視点を与える」ものだとさらにいい。 ここで無意

    「無意味な批評」 が横行しすぎている現在へ警告。年も明けたしいろいろ語る。 - ncat2の日記
    kodaif
    kodaif 2010/01/03
    "今現在、無意味な感想や批評というのが山ほどあり、さらにそれらは批判されることはほとんどない。そのため、この辺りで少し、それらに対して釘を刺しておくことで、バランスを取りたいと思っているのだ。"
  • 私たちの中にある「理想のM-1」は、終わってしまったのだろうか? - ncat2の日記

    笑い飯による親(M-1)殺し - ロマンティックあげるよ。 この熱い記事を読んで、やっぱりお笑い好きな人間としては、「M-1」について何かしら語りたいなあと思ったので、語ってみる。「笑い」に対する批評とかではない。ただ、M-1について語ります。主観だらけです。これは批評でもなんでもなくただのいち素人の「思ったこと」です。この記事を読んだ後か前に(できれば後)、『僕たちの中にある「理想のM-1」を、終わらせるわけにはいかない!』←こちらの記事もお読みください。*1。ちなみに、最終決戦の笑い飯敗退は主観でも妥当だと考えます。 上記の記事にあるとおり、M-1は「コンテスト」だ。ハリセンボンが噛んだら、個人的におもしろくても噛んだということで大幅に減点しなくてはならないし、誰かの漫才で一度も笑えなくて、早く終わらないかなあと思っていても、技術力が高かったならば高得点をつけなければならない。それがコ

    私たちの中にある「理想のM-1」は、終わってしまったのだろうか? - ncat2の日記
    kodaif
    kodaif 2009/12/24
    "「審査」をしてもらいたくはない。だから、本当のところ、彼らのことを「審査員」と呼びたくはない。完全に主観で点を付けて欲しい。技術がめちゃくちゃあるとわかっても、笑えなければ低得点をつけて欲しい。"
  • バナナマンのラジオの件について、自分なりに考察する。 - ncat2の日記

    バナナマン日村がマジ切れ、「俺は傷ついている」という悲痛な叫び 話題にはなりそうとは思っていたけれど、ここまでなるとは正直思っていなかった。驚いている。ブコメでも、なかなかいろいろな意見が交わされているようで、興味深く読んでいる。 まず、書き起こした人はどう思っているのか、ということをしっかりと書いておくべきかなと思い、書くことにする。 まず、あのプライベートを暴露するなどの、バラエティでの「いじり(いじめ)」に関しては、完全に「あり」だと思う。やってもかまわない。ただ、傷ついていて、心の中では納得できていない部分があるのだと自覚しつつ、それでもいじりをするべきだと考えている。だから、立場としては「いじり肯定派」となる。 また、「書き起こしでは空気が伝わらない」という点に関しては、申し訳ないといわざるをえない。放送も随分前のもので、誰も書き起こしていない、しかし、現場の人間の「いじり論」

    バナナマンのラジオの件について、自分なりに考察する。 - ncat2の日記
    kodaif
    kodaif 2009/12/12
    "怒っていたし、またある程度はショーをしていた。そういうことだ。人はすぐヤラセかガチかの二元論で語りたがる。しかし、特にバラエティにおいては、完全なドキュメント、完全なヤラセというのはほとんどない。"
  • 吉本興業の団体芸は、「究極の笑い」へのアプローチである - ncat2の日記

    興業というのは、お笑いコアファンやブロガーなどからは、あまり評判がよくないように思える。特に最近、有吉などの反吉芸人の台頭や、島田紳助の恫喝事件などが影響か、反吉の勢いが増している。あの吉興業の芸人が集まると行われる大筋が決まったミニコント、いわゆる「団体芸」に対しても、批判的意見をよく見かける。 そういう私も、ツイッターなどでも書いたように、個人的趣味だけで言えば反対派なのだが、客観的に見ると、あの団体芸にはとてもおもしろい可能性が眠っていると思っている。 今回は、その「可能性」とは一体何か、について解説していこうと思う。また、これは「吉興業」だけでなく、吉をだしにした「お笑い」そのものについての評論でもあるため、吉に興味がない人も読んでもらえるとありがたい。 まず、題に入る前に、一つ考えて欲しいことがある。それは、「いままでで一番笑ったのはなんのときか?」である。実際

    吉本興業の団体芸は、「究極の笑い」へのアプローチである - ncat2の日記
    kodaif
    kodaif 2009/12/09
    "これらの要素により、一部の観客は団体芸を「鑑賞」しているというよりも、「体験」しているという状態にかなり近くなる。そうなってくると、もちろんそれらの人にとっての笑いの質はとんでもなく上がる。"
  • アメトークの過剰な演技性に感じる、細かいが重要な違和感 - ncat2の日記

    アメトークという番組は基的によく出来たものなのだが、たまにそこにある過剰な演技性に違和感を覚えることがある。その演技性は一概に悪と言えるものではないが、議論の余地があるよなーと思うもののため、ここに記しておく。以下詳細。 私が感じる過剰な演技性というのは、アメトーク内で「○○ってなることあるよね」というような、その回のくくりの中のあるあるを披露した際、全員が「あ〜! はいはい! そうだね!」とリアクションをすることにある。 例えば、「人見知り芸人」での一幕。NON STYLEの石田が言ったことにに対してライセンスの藤原が反応したというやりとり。 石田「楽屋挨拶するときも、まず、なんですけど、コンコンの大きさが分からないんです」 藤原「…わかるわかる!」 (一瞬遅れて「あー!」という声。ここで他の芸人もうなずくのがカメラに抜かれる。) 遅れた間や内容から考えるに、藤原以外の芸人はそんなに「

    アメトークの過剰な演技性に感じる、細かいが重要な違和感 - ncat2の日記
    kodaif
    kodaif 2009/11/21
    "なのに、全て分かる、というような言動をする。そのような話を過剰にあわせる行動は、ある種「知ったかぶり」をしているように見え、それによって「おいおい、これホントかよ」と思われてしまうことになる。"
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