近衛上奏文の謎 (掲載文は紙面の関係から短縮されているので、ここに全文を掲載した) 日本を席巻した共産主義と郡部への浸透 コミンテルンから見た近衛文麿と革新官僚と陸軍統制派 近衛文麿は1937年6月に45歳の若さで初めて内閣を組織して以来、1941年12月の太平洋戦争に至る寸前まで、わずか4年5ヵ月の間に3度、2年9ヵ月の長期にわたり首相として国政や対外関係に重大な役割を演じた。国内的には大政翼賛会政治の独裁国家の政治体制や経済の国有化などの総力戦体制を確立し、対外的には1938年1月の第1次近衛声明の「爾後国民政府を対手とせず」で日中戦争の処理を誤り、11月の第二次声明では「東亜新秩序建設」を宣言して世界から孤立化し、40年9月には日独伊三国軍事同盟を締結し、41年7月には南部仏印に進駐し「対英米戦ヲ辞セズ」の国策を決定した。1941年9月には10月上旬に至るも交渉成立の目途なき