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ブックマーク / pikarrr.hatenadiary.org (19)

  • まなざしの快楽〜「合理化のジレンマ」の章 - モバゲータウンはなぜ薄気味悪いのか

    いじめ対策としての異なるチャンネルの確保 いじめが問題になっているが、いかにいじめをなくすか、という論点は不毛なように思う。暴力などの犯罪行為ならいざしらず、無視、陰口などの集団的ないじめは、人間のコミュニティにおいて必然ではないだろうか。誰かを外部へ排他することが内部を形成する条件であるように思う。そしてだれが排他されるかは、偶然であり、だれもが排他される可能性がある。 様々に語られるいじめ対策の中で、比較的有効だろうと思ったのが、学校のクラスなどの小さな世界に埋没せず、異なるチャンネルを確保しようというアドバイスである。 自意識は1回性に支えられる 多くの悩みは他の人からみるとなんてことはない。なんでそんなことぐらいで、悩み、極端には死を選ぶのだろうかと思う。その程度のことは誰もが経験することで、そのうちなんとかなるよ。そんなに思い詰めない方がよい、と考える。 ここにあるのは、1回性と

    まなざしの快楽〜「合理化のジレンマ」の章 - モバゲータウンはなぜ薄気味悪いのか
  • なぜ「かわいい」が氾濫するのか - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    「東京カワイイウォーズ」 大人気のカリスマモデル“エビちゃん”。販売絶好調のファッションビル“渋谷109”。2万人近い女の子が熱狂するファッションショー“東京ガールズコレクション”…。いまファッション界で人気を集めるものに共通するのは女の子たちの「かわいい」という声だ。 製品の品質やブランドのネームバリューより、「かわいい」と感じたものをその場で消費するようになった女の子たち。そんな女の子たちが消費者代表となったファッション業界では、いま、長年の作り方や売り方を根から問い直すような変革が始まっている。アパレルのプロを排除して企画されるデザイン。年々短くなる流行サイクルに対応するための超ハイスピード生産。実際の店舗を持たず、24時間女の子の消費をキャッチするネット販売の出現…。 NHK特集 「東京カワイイウォーズ」 http://www.nhk.or.jp/special/onair/06

    なぜ「かわいい」が氾濫するのか - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
  • なぜドラマ「14才の母」はうすら寒いのか  死と情動とリアリティ   - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    恋愛ドラマのリアリティ ドラマは基的に障害がありそれを乗り越えることが描かれる。特徴的なのが恋愛ドラマだ。男女が障害を乗り越え結ばれることを基にする。問題は障害をどのような設定にするか。このような障害設定は時代背景を反映する。 たとえば「ロミオとジュリエット」では、障害は家柄であり、駆け落ちものでは身分である。かつてはそのような社会的な秩序(拘束)がリアリティをもっていた。 韓国ドラマは障害のデパートである。韓国ではいまでも日では失われつつある家族関係、家柄などの社会的な秩序(拘束)が重要視されているために、恋愛ドラマでも重要な障害として描かれる。オバサンたちが韓流を好むのは、彼女達が若い頃にも日でもまだこのような社会的秩序(拘束)が働いていたためだ。 最近の若い人たちではそのような社会的秩序(拘束)は、お互い好きなら良いじゃん!と、リアリティを持ちえない。 「不治の病」ドラマとい

    なぜドラマ「14才の母」はうすら寒いのか  死と情動とリアリティ   - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
  • なぜ「デリダ的脱構築」は不可能なのか? - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    神話的暴力と神的暴力 「正義の門前:法のオートポイエーシスと脱構築」馬場靖雄 (http://www.thought.ne.jp/luhmann/baba/gj/gj00.html)を参照に、ベンヤミンの「暴力批判論」、デリダの「法の力」による暴力論を考える。 ベンヤミン「暴力批判論」では法の暴力を、「神話的暴力」と「神的暴力」に分けている。 ・神話的暴力・・・何らかの目的のために行使される暴力 法維持的暴力・・・現存の法秩序を再生産する 法措定的暴力・・・空白状態のなかから新たな秩序を立ち上げる ・神的暴力・・・何ものをも目的としない暴力 いっさいの領域で神話が神に対立するように、神話的な暴力には神的な暴力が対立する。しかもあらゆる点で対立する。神話的暴力が法を措定すれば、神的暴力は法を破壊する。前者が境界を設定すれば、後者は限界を認めない 「暴力批判論」 ベンヤミン 前者(神話的暴力)

    なぜ「デリダ的脱構築」は不可能なのか? - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
  • なぜ限りなく「純粋な悪」は存在しえるのか - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    「負債の循環」という内部 「悪いこと」をするときにはほとんど自己正当化の心理が働いている。「当の俺も悪いこととわかっているし、そんなことはしたくはないが、外からなんらかの圧力を受けたから、仕方がないんだ。」親が悪い、先生が悪い、社会が悪いなど。 これは「負債の清算」である。社会の中で循環する「負債の連鎖」が私に回ってきたので、清算するために次へと送り返しただけ、ということだ。しかし悪いことをしたあとに「負債の清算」が清算されることはなく、罪悪感が残るのだが。 「略奪」と「純粋略奪」 このような「悪いこと」とは、負債の連鎖内部の他人からの「略奪」である。逆に言えば、内部(社会)とは負債の連鎖の作動が作動する範囲であるといえる。 それに対して純粋略奪はこのような連鎖の外にあり、略奪を行っても負債感は生まれない。この違いは略奪が内部(社会)内にあるのに対して、純粋略奪は内部(社会)と外部の間で

    なぜ限りなく「純粋な悪」は存在しえるのか - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
  • なぜ「デスノート」はセカイ系ではないのか(後編)「死神」は内部を再生する - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    道具の呪術性(フェティシズム) さらにセカイ系の「戦闘美少女」の特徴に、道具性がある。「銀河鉄道999」のメーテル、「攻殻機動隊」の素子、「最終兵器彼女」は機械であり、「エヴァンゲリオン」のレイはクローンである。 その他「戦闘美少女」は兵器で武装している。 「戦闘美少女」が道具であることは、斎藤のいう中性性やヒステリー性に繋がるだろうが、さらには道具には外部を開くという力がある。 車を飛ばすスピードの快楽、PCを操る快楽、小さな子供が自転車を飛ばす快楽とはなにか。機械とは身体の拡張であると言われる。たとえば車は速さ、力を拡張する。PCは頭脳を拡張する。ネットはコミュニケーション速度を拡張する。 この拡張とは、外部環境の開拓である。偶然的、混沌の外部環境を、フォーマットし内部環境(グレイゾーンへ)へと転換する。 このようにテクノロジーを使う快楽は、機械化され拡張された身体がいままで到達し得な

    なぜ「デスノート」はセカイ系ではないのか(後編)「死神」は内部を再生する - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
  • 純粋略奪の快楽 - なぜ「デスノート」はセカイ系ではないのか(前編) 「戦闘美少女」は享楽する

    映画「デスノート」の虚構としてのリアリティ 映画「デスノート」を見た。マンガはコミックで読んでいたが、映画化はむずかしいのではと思っていた。名前を書くことで人を殺せる死のノートを手に入れるとどう使うかという「正義とはなにか」という大きなテーマがあり、マンガのおもしろさは心理の葛藤にある。 しかし映像で表すと、「ノートに名前を書く」→「突然、人が苦しみだして死ぬ」。役者が突然苦し倒れる映像は、実写ヒーローもの程度にさびしく、リアリティがない。実際にみてほんとにそのようだった。また主人公月(ライト)などの心理表現の映像化はむずかしく、結局、悪魔的少年というわかりやすいキャラクターで描くしかなかったようだ。 唯一の救いはCGで描かれた死神デュークの存在である。そのCGがどれだけリアリティがあるかというよりも、仮にCGで描かれた死神デュークがいなければ、役者が突然苦し倒れるような虚構性はさらにサブ

    純粋略奪の快楽 - なぜ「デスノート」はセカイ系ではないのか(前編) 「戦闘美少女」は享楽する
  • 続 環境問題にはなぜリアリティがないのか その4 自然主義的闘争 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    現代の自然主義的闘争 現代の自然主義的闘争の構図 内部(社会)・・・倫理 心、形而上学(人類学機械)、互酬(贈与と返礼)、 規律訓練権力、神話的暴力、固有名 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− グレイゾーン(内部環境)・・・予測可能性、環境コントロール 断絶(ファルス)、無垢、純粋略奪の快楽、神的暴力 機械論・・・数字(科学)の作動、交換、資主義システム、生権力、環境問題、帝国 環境コントロール・・・身体(剥き出しの生)、労働力、資源、異教徒、植民地、マルチチュード −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 外部環境・・・偶然性、コントロール不可能 地震、津波、隕石落下による大災害、エイズ、ガン、欲望、寿命、他者erc 人間と環境(自然)の終わりなき闘争において、近代以降、科学技術の発展が内部環境を開拓し、略奪すること

    続 環境問題にはなぜリアリティがないのか その4 自然主義的闘争 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
  • 続 環境問題にはなぜリアリティがないのか その3 グレイゾーンという闘争の場 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    内部環境(グレイゾーン)の円滑なコントロール 「歴史の終焉」論、そして「動物化」、「生権力」、「帝国」などの現代論で示されるのは、外部の消失、外部の内部化である。外部は当に消失したのか。内部化したのか。 環境問題とは、近代の科学技術は外部(自然)からの略奪に成功した。しかしあまりに計画性のなさから外部からの反動がおこりそうである。だからより計画的に内部環境をコントロールしなから略奪しようということである。 また生権力とは、近代以降、心身二元論によって自然としての身体を労働として取り出した。そこでは心も訓練しコントロールしてきたが、さらに身体(自然)のみをより管理し活用しようということだ。 ボクはこのようなコントロールされる環境を内部環境と呼んだ。この内部環境とはアガンベンのいう人間と動物、社会と自然のグレイゾーンである。そしてグレイゾーンにある内部環境(資源、労働力)の円滑なコントロール

    続 環境問題にはなぜリアリティがないのか その3 グレイゾーンという闘争の場 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
  • 続 環境問題にはなぜリアリティがないのか その2 環境コントロールという下部構造 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    環境との調和など存在しない 環境との調和など存在しない。自然は偶然性という名の無限の怪物である。だからわれないように闘争しつづけなければならない。それがいわば人間そのものの存在意義でさえある。 たとえばマルクスがなぜ経済を下部構造においたのか。経済とは人間と自然の根的関係であるからだ。マルクスが自然との調和に理想系を見たことの間違いはあるとしてもこの視点は正しい。現代の環境問題とは、どこまで人間は自然をコントロールできるかという、太古からかわらない自然との闘争の新たな段階である。 いかに環境をコントロールするか。それは無限の環境の中で、コントロールできるだろう環境であり、人間が「やさしく」できる環境である。これを「内部環境」と呼ぶと、「内部環境」をコントロールするのは、偶然性というトラウマ的「外部環境」から人間社会を守りながら、環境から「資源」を略奪することを意味するだろう。 「動物化

  • 続 環境問題にはなぜリアリティがないのか その1 環境問題という闘争 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    環境への漠然とした恐怖 環境問題にはわからないことが多々ある。一番は地球の温暖化はほんとに人間活動によるのか、ということ。これはまだ証明されていない。地球上の二酸化炭素の多くの動きはいまだ不明である。また温暖化した場合になにが問題なのか、たしかに現状維持はできないだろうが、環境変化と人間の順応を加味するとどうなのか。人間はさまざまな環境に適応し生きてきたのである。だからむしろ環境問題の根底にあるのは漠然とした恐怖ではないだろうか。 環境をコントロールしたい欲望 「環境にやさしくしよう」とは、そこに「やさしくすべき環境」があるといことであり、「やさしくすべき環境」をやさしくしようということ以上の意味はない。この「やさしくすべき環境」とはなにか。人間の生活に関係する「自然」である。この「自然」は人間のみが使うわけではなく、さまざまな生命と共有し、共存している。この「自然」の破壊は人間のみが生き

    続 環境問題にはなぜリアリティがないのか その1 環境問題という闘争 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
  • なぜ人類は「断絶」を求めてきたのか? - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    「断絶(ファルス)」はどこにあるのか? 人は享楽を求める。享楽とは「外部」へ向けての負債感を持たない略奪(純粋略奪の快楽)である。人は享楽することによってこの世界に対して「リアリティ」を持ち続けることができるのだ。だから人類の歴史を語るときにどこに享楽する「外部」を見いだしていたか、すなわち「断絶(ファルス)」を見いだしていたかを考えることが重要となるだろう。 「自然」という外部 人類においていつの時代も「外部」とは「自然」である。たとえばライオンがシマウマを殺すことに善悪がないのは、人間集団(内部)の「外部」にあるからだ。人はいつの時代も「自然」を外部として純粋贈与(略奪)を繰り返してきた。環境問題を出すまでもなく、それは現代でも変わらないだろう。 自然とはこの宇宙全体であり、空間であり、時間である。自然はボクたちにたえず予測できない偶然性としての「外部」でありつづける。それ故に世界は「

    なぜ人類は「断絶」を求めてきたのか? - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
  • オタクであることはなぜ恥ずかしいのか

    なぜ「オタク」は恥ずかしのか 「涼宮ハルヒの憂」がなにげに人気です。ストーリーテーラー役のキョンはいつも被害者で、いつも正常(正しい)です。それは、責任はいつも外部にあるという責任回避的立場です。それでいて、ハルヒに繋がることでセカイの中心にいることができる。これってとても幸せな立場です。 そもそもセカイの中心にいることは難しいことですが、それで重要な位置にいるときには、そこに大きな責任がともなうものです。しかしキョンは責任回避しながらセカイの中心にいられるわけです。それでいてかわいい女性に好かれるのですから、こんな都合の良い、おいしい立ち位置はありません。これがセカイ系の物語の一般的なパターンではないでしょうか。 セカイ系の物語へはまることの「恥ずかしさ」は、このような「責任回避しながらセカイの中心にいる」というとても都合の良い、そして「現実逃避」的であるからです。「オタク系アニメ」は

  • まなざしの快楽 〜 「薄氷のコミュニケーション」の章 - なぜ若者は怒らずにキレるのか?

    薄氷の共犯関係 「若者よ怒れ」 平野さんは学生運動の元闘士。出版社時代に労働争議で指名解雇された後の76年、新宿ロフトを開店した。「わかってたまるか」社会への怒りをぶつける若者の姿勢と音楽にほれ込んだ。82年、店を仲間に託し、海外放浪の旅に出る。10年後に帰国したとき、ロックは業界に取り込まれ、メジャー志向のバンドが増えていた。若者の話しぶりにも異変を感じた。いつも「君の気持ちもわかるよ」から始まり、「ま、いいか」で終わる。「わかってたまるか」と、ぶつかってこそ得られる絆。それを知ってもらおうと、95年に「ロフトプラスワン」を作った。右翼、左翼、AV監督、オタク、格闘家らが出演し、客と討論するトークのライブハウスだ。・・・ あらがいようのない時代の流れ。だが、平野さんは違和感を覚える。「何でも受容する懐の深さが新宿のよさだったのに」髪の毛を逆立てたロック少年が警官に職務質問され、かばんを開

    まなざしの快楽 〜 「薄氷のコミュニケーション」の章 - なぜ若者は怒らずにキレるのか?
  • 「どうして人を殺してはいけないのですか?」 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    「死」の心身二元性 「死」とは、概念です。この概念は「人間」のみに可能です。動物は「殺す」ことはありません。「死」の概念がないので、「他者を潰そう」ということはあっても、そこに「死」への目的性はありません。 (「人間」の)「死」という概念は、「この私」という個人の尊重によって、生まれています。「この私」というとき、「死」は最高の「強度」をもち、逆に「集団の中の一人」のとき、いわば身体を形成する1細胞という集団の新陳代謝の1個体のように「死」の「強度」は低下します。 だから「殺す」=「他者を死へ至らしめる」ということは、「他者」とは「この私」の反転としての「このあなた」であり、個人の尊重された存在であり、「殺す」という概念には、すでに始めに「禁止」が内在されているのです。 このように「死」、「殺す」という言説を考えるとき、「人間としの人」と「動物としての人」の二面性、「心身二元性」を見る必要

    「どうして人を殺してはいけないのですか?」 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
  • ラカンとデリダとボクと その2 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    固有名論 ラカンとデリダの近似的な関係を見るために、「存在論的、郵便的」(ISBN:4104262013)で重要な、固有名の議論を見てみよう。 「エクリチュール」とはコミュニケーションの脆弱さ、つまり誤配可能性一般を意味している。他方、「多義性」と「散種」は、特殊性と単独性、確定記述の束とそれを越える剰余に理論的にはほぼ等しい。したがってこのデリダの命題は私たちの文脈では、コミュニケーションの失敗こそが固有名の剰余を生じさせると述べたものだと解釈される。・・・そこではもはや、「命名儀式」の仮定は必要ない。むしろ命名儀式の唯一性が簒奪される可能性、その代理可能性、言い換えれば伝達経路の誤配可能性こそが固有名に散種を与える。クリプキは散種のこの郵便的構造を理解していなかったため、神話を必要とした。 私たちはここで、固有名の訂正可能性について語るクリプキの可能世界論と、伝達経路の脆弱さについて語

    ラカンとデリダとボクと その2 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
  • ラカンとデリダとボクと その1 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    「クッションの綴じ目」=偶有性から単独性への転倒、まなざしの快楽 ボクは「偶有性から単独性への転倒に神性は宿る」といった。たとえば、ある女性を好きになる。そして彼女は僕の女神になる。このときになぜその女性が好きになったのかの理由はたまたま(「偶有的」)としか、言えない。しかし好きになったのであり、このたまたまであることの「不安」を隠蔽するために、彼女は僕の女神だという「幻想」を見るのだ。 そして彼女は僕の女神であるのは、みなが彼女を「まなざし」ているからだ。そしてみなにまなざされる彼女にまなざされる僕は、「この私」という「単独性」を手に入れる。 これは、ラカンの「クッションの綴じ目」理論で説明できる。シニフィアンの連鎖の中で、遡及的に「クッションの綴じ目」として、意味が与えられる。その決定の不安において、幻想/S◇aは生まれる。これは主体の物語である。斜線を引かれた主体/Sは、象徴界Aに参

  • Googleはなぜ「世界征服」をめざすのか その2 「機械論の欲望」  - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    素朴な「ネットの欲望」 「ウェブ進化論」 梅田望夫(ISBN:4480062858)は反響を呼んでいるようです。確かに面白いし、ネットでなにが起こっているかよくわかります。しかし「世界政府」など「危険なこと」も書いているにもかかわらずに、「素朴な好意論」が多いのが気になり、*1あえて引き続いて、少し後ろ向きな話をしてみたくなりました。 アメリカを中心とするネオコン(≒ネオリベラル)は、世界を民主主義化することが正義でありそのために武力もじさないということが言われていますが、それをグーグル的「民主主義」の中に見られると前述しました。それは、グーグルに見られる力の根底にネットの爆発的広がりという「ネットの欲望」にあり、それがネオリベラルの下支えにもなっているのではないか、ということです。そしてたとえば著者はこのを楽観主義に書いたと言っていますが、このへ「素朴な好意論」そのものが、「ネットの

    Googleはなぜ「世界征服」をめざすのか その2 「機械論の欲望」  - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
  • ドラマ「時効警察」はなぜおもしろいのか。 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    今クールの中でずば抜けて、面白いと思うのが、ドラマ「時効警察」(http://www.tv-asahi.co.jp/jikou/index.html)です。時効課の警察官が時効になった事件趣味で捜査し、みごとに真相にたどり着くというドラマです。 このシチュエーションのポイントは、 ・時効課という時効になった事件の資料を管理、処理するという、組織の中では、「脱社会的」な点 ・警察、殺人という緊張的な事件などを、趣味にする点(究極のプチクリ) ・趣味なので事件の真相にたどりついても、そこでおしまい、というあくまで趣味である点 難問事件を解決できたことを騒ぎ、自分の手柄とし、時効課という「窓ぎわ」から刑事課へ移動するという「エリートの知」*1へ展開するわけでも、それによって犯人へ倫理的なものを求めるような「芸術家の知」でもなく、どこまでも「フリーターの知」、趣味による楽しみレベルで止める、とい

    ドラマ「時効警察」はなぜおもしろいのか。 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
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